目次
- 目次
- スタッフ・キャスト
- あらすじ
- 『メアリと魔女の花』をつくったジブリ関連のスタッフたち
- 作っている人たちだけ見ても「ジブリ濃度」が高い
- 『ハリーポッター』や『ドクター・ストレンジ』を思い出す
- 原作の邦訳は1976年刊行の『小さな魔法のほうき』
- アニメにおける親の不在
- 『メアリと魔女の花』は女の子の成長物語なのか?
- ピーターはピーチ姫なのか
- 成長したキキはジジの言葉がわからなくなる
- 『メアリと魔女の花』はボーイミーツガールでさえない
- 魔力は失うが『魔女の宅急便』のようにうまく締められていない物語
- 長くなってしまったので一旦ここで締める
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ジブリ出身の米林宏昌さんが監督のアニメ映画『メアリと魔女の花』を見てきたけど予告編のイメージと近くて意外性がなく凡庸なアニメ映画だな、という感想。
評価を星で言えば「★★★☆☆」で星三つくらい。
ジブリに支えられていたとはいえ、ジブリ時代の『借りぐらしのアリエッティ』や『思い出のマーニー』の方がよく出来ているのが寂しい。
『メアリと魔女の花』もスタッフの名前を眺めているとジブリアニメに携わってきた方々が多いのだけど。
中身もジブリっぽさ満載だけど、ジブリ出身の西村義明プロデューサーが設立したスタジオポノックという会社による制作。
スタッフロールでは「感謝」という項目で宮崎駿さん、高畑勲さん、鈴木敏夫さんの名前が記載されていたけど、『メアリと魔女の花』には直接関わってはいないみたいだ。
途中からネタバレがあります。
スタッフ・キャスト
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【スタッフ】
監督:米林宏昌
原作:メアリー・スチュアート
プロデューサー:西村義明
音楽:村松崇継
作画監督:稲村武志
【キャスト】
杉咲花:メアリ
神木隆之介:ピーター
天海祐希:マダム・マンブルチューク
小日向文世:ドクター・デイ
遠藤憲一:ゼベディ
渡辺えり:バンクス
大竹しのぶ:シャーロット
あらすじ
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赤い館村に引っ越してきた主人公メアリは、森で7年に1度しか咲かない不思議な花≪夜間飛行≫を見つける。
それはかつて、魔女の国から盗み出された禁断の“魔女の花”だった。
一夜限りの不思議な力を手に入れたメアリは、雲海にそびえ立つ魔法世界の最高学府“エンドア大学”への入学を許可されるが、メアリがついた、たったひとつの嘘が、やがて大切な人を巻き込んだ大事件を引き起こしていく。
http://www.maryflower.jp/about/story.html
『メアリと魔女の花』をつくったジブリ関連のスタッフたち
男鹿和雄
スタッフロールを眺めていたら男鹿和雄さんの名前をもあった。
男鹿和雄さんは、『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を始め、数々のジブリアニメで背景を描いてきた方。
ただ今回の『メアリと魔女の花』は特別、アニメとして見所のある背景というのは少なかったというのもあり、男鹿和雄さんはは直接背景を描いているわけではなく、アドバイザー的な立ち位置なのかもしれない。
背景は今までのジブリらしく、手描きで描いているというのは良いところだった。
押山清高
押山清高さんは色々なアニメで原画を描いてきたアニメーターで、ジブリ作品では『借りぐらしのアリエッティ』、『パン種とタマゴ姫』(宮崎駿監督による短編アニメ)、『風立ちぬ』で原画を描いている。
テレビアニメの『スペース☆ダンディ』第18話「ビッグフィッシュはでっかいじゃんよ」では、ジブリ風の冒険活劇で濃厚な短編アニメ作品になっていてとても驚かされた。
その後、監督や脚本として制作したテレビアニメ『フリップフラッパーズ』は物足りなさを感じたけど、「ジブリの血」を感じさせるものを作るので今後も期待している。
西村義明、坂口理子、村松崇継、稲村武志
プロデューサーの西村義明さんはジブリ時代に『ハウルの動く城』、『ゲド戦記』、『崖の上のポニョ』の宣伝を担当。
脚本の坂口理子さんは高畑勲監督の『かぐや姫の物語』で脚本を担当。
音楽の村松崇継さんは映画やドラマの作曲を多く手がけていて、『思い出のマーニー』でも音楽を担当。
作画監督の稲村武志さんは『ホーホケキョ となりの山田くん』、『千と千尋の神隠し』、『猫の恩返し』など数多くのジブリ作品で作画を担当。
作っている人たちだけ見ても「ジブリ濃度」が高い
以上のように、主要スタッフだけを見てもジブリを経由してきた方々多い。
キャストでも過去にジブリ作品に出演経験のあるひとがいたりする。
作品の中身もジブリらしさは充満していてしつこいくらいなのだけれど、こうして製作者たちを見ていくだけでも『メアリと魔女の花』がいかにジブリの「血の通った」人たちが作った「ジブリ濃度」が高いアニメか、ということがわかる。
以下、ネタバレあり
『ハリーポッター』や『ドクター・ストレンジ』を思い出す
主人公のメアリは「エンドア大学」という魔法を研究している大学へ入学しそうになるけど、「魔法を教えている/研究している」学校というと『ハリーポッター』を思い出さざるをえない。
また、大学の内のごちゃごちゃした風景や生徒たちの動きは『コクリコ坂から』のカルチェラタンの雑多な景色とも重なる。
日本では今年公開されたマーベル・コミック原作のハリウッド映画『ドクター・ストレンジ』も、魔法の力なんて持っていない天才外科医がネパールにある秘密組織の「魔法使い」たちが集まる場所で魔法の修行をする、という物語。
また、ドクター・ストレンジが身にまとう赤いマントとメアリの魔法のほうきの動きがコミカルところがイメージとして重なる。
原作の邦訳は1976年刊行の『小さな魔法のほうき』
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『アリエッティ』や『マーニー』と同様に、『メアリ』にも原作がある。
メアリー・スチュアートによる『小さな魔法のほうき』は1976年に邦訳があかね書房から刊行されている。
読んでいないので詳しくはわからないけど、『ハリーポッター』や『ドクター・ストレンジ』などの魔法使いのイメージというのが、『小さな魔法のほうき』から影響を受けていることは有り得る。
大昔の児童文学が原作だから、影響源としていろいろと既視感があるのは仕方なくもある。
ただ現代のアニメとして、『メアリ』はオリジナリティとか作家性を感じられないので小学校低学年くらいまでの子供向けかな、という期待はずれ感がある。
ジブリアニメがほぼ消滅したいま、子供に見せるにはこういうアニメはいいとおもう。
ちなみに、原作の作者の名前はメアリー・スチュアートだけど、主人公の名前も「メアリー」らしい。
アニメにおける親の不在
上の記事は2011年に書いた文章。子供たちが主役のアニメにおいて、少なくとも『あらいぐまラスカル』から40年以上経った今でも、親の存在が消され続けている、という話。不自然なことだけどそれが当たり前で自然になってもいる。
『メアリ』でも親の不在が起こっている。
理由はわからないけど赤い館村に引っ越してきたメアリ。
大叔母のシャーロットやお手伝い、庭師などの大人はいるけど、両親は仕事があるからということで結局物語のおわりまで登場しない。
「引っ越してきたばかりの村」、「長期休暇」、「親の不在」という舞台設定の3点セットは、子供にとって冒険が起こるのに十分なきっかけになっている。
『メアリと魔女の花』は女の子の成長物語なのか?
ツイッターを見ていて、『メアリと魔女の花』はメアリが成長する過程を描いたアニメだ、みたいな意見があったけど、映画を見ながら不思議と全くそうは思わなかった。
たしかに、両親の不在は孤独を打ち克つきっかけになるなどして、成長を促す記号になってはいて、そしてメアリは魔法世界に冒険して帰ってくる(『千と千尋の物語』と同じく「行きて帰りし物語」)わけだけど。
物語の序盤でメアリの不器用さや怠惰な面、子供っぽさはしつこいくらいに強調されている。
でも、「夜間飛行」というチート(裏技)な手法で一夜限りの魔法という特別な力を得ただけで、家に帰ったあとで表現されているのは「やっぱりうちが一番」というセリフやその時の表情。
序盤の不器用さなどの伏線はよかったけど、クライマックスでメアリの成長面を描ききれていないように思える。
ピーターはピーチ姫なのか
宮崎駿監督は『魔女の宅急便』でマリオとピーチ姫の役割を逆転させた。
魔女キキがほうき(デッキブラシ)にまたがり、飛行少年トンボを助ける。
『エイリアン』で女優シガニー・ウィーバーがヒーローを演じたように、少し前の時代の、フェミニズムな潮流に起因した現代的な男女の役割の逆転だ。
米林宏昌監督も『メアリ』で魔法にまたがった女の子が男の子を助ける、という演出で『魔女の宅急便』を記号的にマネてはいるけど、サンプリング(パッチワーク)的な演出で終わってしまっていて、後に続いていかない。
成長したキキはジジの言葉がわからなくなる
『魔女の宅急便』のクライマックスで、キキが今までわかっていたジジの言葉がわからなくなって、ニャーという猫の鳴き声にしか聞こえなくなる。
あのシーンは凄く切なくもあり、分かろうとしなければ一生謎のままでもある、キキの成長を一瞬で描いたシーンだった。
男に恋をしたとか、初潮がきたとか、女の子から女になったとか、いろいろ言い方はあるけど、キキが成長したからジジと話せなくなった。
話せなくなった直接の理由はキキの魔力が弱まったからだろうけど、なぜ弱まったかというと魔女でありながら「人間の世界」で生きることを決めたから、でもある。
魔力というのはつまり「おまじない」であって、人間の男の子と話せる(セックスができる)なら猫と話す必要なもうない、という端的に言えばそういうことになる。
おまじないは「思い込み」でもある。
トンボに思いが集中してジジへの思いが軽くなれば、魔法が解けるのは自然な結果だ。
ジジはキキにとって「イマジナリーフレンド(空想の友人)」に近い存在でもあった。
『メアリと魔女の花』はボーイミーツガールでさえない
メアリとピーターがという女の子と男の子が出会って恋をする、という物語ならボーイミーツガールらしい物語と言えるかもしれない。
でも、メアリとピーターには恋心というより友情に近い感情を感じるし、もっと言えば、メアリはピーターをなんとも思っていない、人とも思っていない、と悪いほうに考えればそうなってしまう。
「二人で帰ろう」という言葉や罪悪感を拭うことが大事なだけで、別にあれがピーターである必要はなかった。
魔力は失うが『魔女の宅急便』のようにうまく締められていない物語
メアリが最後に魔力を失う、というのはキキの最後に近い。
でも、それでメアリが発した言葉「やっぱりうちが一番」だ。
田舎の町でうんざりしていたから冒険してみたけど、やっぱり「退屈な現実」が一番いいんだよね、ということだろうけど、それだと全然恋物語ではないじゃん。
というように、やっぱり『魔女の宅急便』を記号的にマネただけなので、観客に全然カタルシスを与えることができないクライマックスになってしまっている。
やはり、『メアリと魔女の花』を成長物語と言うのは違和感がある。
長くなってしまったので一旦ここで締める
この文書を書く前にツイッターにメモ的にツイートしていた。
そのツイートを再構成しながら書いていたけど、半分くらいのところで既にかなり文章が長くなってしまった。
『魔女の宅急便』の話など、書くつもりはなかったけど自分の中で昔考えことが蘇ったりして長くなりすぎた。
ということで、残りは気分が乗り次第また書ければいいな、という感じで一旦締める。