
私たちは何個の時計で生きているのか?――社会的時計と「多層的なカレンダー」の時代
私たちは同じ時計を見ている。
スマホにも、駅にも、パソコンの画面にも、同じ時刻が表示されている。日付は0時に変わり、カレンダーは誰にとっても同じように進んでいるように見える。
しかし、実際の生活はそれほど単純ではない。
会社には会社の時計があり、学校には学校の時計があり、家庭には家庭の時計がある。ソシャゲには更新時間があり、FX市場には市場の一日がある。
人はそれぞれ、自分が所属する場所やシステムによって、異なる時間の区切りを生きている。
私は長いあいだ、自分が「時間に追われている」のだと思っていた。
だが、0時、5時、7時という複数の日付変更タイミングを意識するうちに、少し違う見方が生まれた。私を追っていたのは、時間そのものではなく、複数の社会的時計だったのではないか。
この記事では、社会的時計とは何か、そして現代人がいかに複数の時計を抱えながら生きているのかを考えてみたい。社会的時計は私たちを拘束する。だが同時に、曜日感覚や社会との接続を与えてくれる支えでもある。
私たちは、いくつの時計で生きているのだろうか?
目次
- 私たちは何個の時計で生きているのか?――社会的時計と「多層的なカレンダー」の時代
- 目次
- 生活の中にある「社会的時計」
- 社会的時計とは何か
- 社会はそれぞれ固有の時計を持っている
- 三層の時計
- 複数の時間体系の交差点で生活している
- 人それぞれ「今日が終わる瞬間」が違う
- 「おやすみ」は一日を閉じる言葉である
- 私は時間に追われていたのではなく、複数の時計に追われていた
- 時計は拘束する
- しかし、時計は支えでもある
- 自由な時間にも、時計は入り込んでくる
- 社会的時計を意識すること
- どの時計に従うのか
- 職業を選ぶ時代から、時間体系を選ぶ時代へ
- 私たちは、いくつもの時計のあいだで生きている
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生活の中にある「社会的時計」
前の記事では、「一日はどこで終わるのか?」という問いから、私自身の生活に入り込んでいる三つの日付変更タイミングについて書いた。
0時。
5時。
7時。
0時には、日本の多くのソシャゲが更新される。公的な日付変更タイミングとしても、もっともわかりやすい区切りだ。
5時には、中華系ソシャゲのデイリーが切り替わる。『ゼンレスゾーンゼロ』や『NTE』をプレイしていると、0時ではなく5時にも一日が変わる感覚が生まれる。
7時には、FX(外国為替証拠金取引)市場の新しい一日が始まる(欧米における夏時間は6時)。私にとっては、むしろこの7時こそが最も重要な日付変更タイミングに近い。スワップが付与され、市場が動き出し、また新しい相場の一日が始まる。
もちろん、これは誰にでも当てはまる話ではない。ソシャゲもFXもやらない人にとっては、0時・5時・7時に何かが切り替わるという感覚はほとんどないだろう。
だが、だからこそ私は思った。
人間は同じ時計で生きているようで、実際にはかなり違う時計で生きているのではないか。
私たちは同じ日本標準時の中にいる。スマホの時計も、駅の時計も、テレビの時報も、パソコンの右下に表示される時刻も同じだ。だが、それはあくまで基準となる時計にすぎない。
実際の生活を動かしているのは、それとは別の時計である。
会社の始業時間。
学校のチャイム。
子どもの登校時間。
役所の受付時間。
スーパーの閉店時間。
ソシャゲのデイリー更新。
イベントの終了時刻。
FX市場の開始時間。
スワップ付与日。
週明けと週末。
納期。
請求日。
支払期限。
それらはすべて、私たちの生活を区切っている。
そして、そのような見えない時間の区切りを、私は「社会的時計」と呼びたい。
社会的時計とは何か
「社会的時計」という言葉には、すでに研究上の用法がある。
アメリカの心理学者バーニス・ノイガーテンは、人生には社会的に期待されるタイミングがあることを指摘した。いつ就職するか。いつ結婚するか。いつ子どもを持つか。いつ引退するか。そうした人生上の出来事には、社会がなんとなく想定している「早い」「遅い」「ちょうどよい」という基準がある。
この意味での社会的時計は、人生の節目に関する時計である。人生の進行表、あるいはライフコースの時刻表と言ってもいい。
この考え方はかなり重要だ。
人は単に年齢を重ねるだけではない。社会の中で「この年齢なら、そろそろこうしているはずだ」という見えない期待にさらされながら生きている。
30歳までに結婚しているべき。
35歳までに子どもを持っているべき。
40歳なら管理職になっているべき。
定年後はこう生きるべき。
そうした規範は、明文化されていなくても人を縛る。
その意味で、社会的時計は人生を評価する物差しでもある。
ただし、私がここで考えたい社会的時計は、それとは少し違う。
ノイガーテン的な社会的時計が「人生のどの時期に何をするべきか」を示す時計だとすれば、私が語りたい社会的時計は「日々の生活がどこで区切られるか」を示す時計である。
つまり、人生全体の時計ではなく、日常を動かす時計だ。
結婚、就職、出産、退職といった大きな人生イベントではなく、もっと細かい。
今日がいつ始まるのか。
今日がいつ終わるのか。
いつ起きるべきか。
いつ寝るべきか。
いつログインするべきか。
いつ相場を見るべきか。
いつ仕事を終えるべきか。
いつ「おやすみ」と言えるのか。
この意味での社会的時計は、かなり日常的で、かなり身体的なものだ。
時計の針は同じでも、生活の区切りは人によって違う。
同じ0時を迎えても、ある人にとっては一日の終わりであり、ある人にとっては仕事の始まりであり、ある人にとってはゲーム更新の時間であり、ある人にとってはただの深夜でしかない。
ここで問題になるのは、客観的な時刻ではない。
その時刻に、自分の所属している社会やシステムが何を要求してくるかである。
社会はそれぞれ固有の時計を持っている
私たちは「社会」という大きなものの中に生きている。
だが、実際には一枚岩の社会に所属しているわけではない。
学校には学校の時計がある。
会社には会社の時計がある。
家庭には家庭の時計がある。
ゲームにはゲームの時計がある。
金融市場には金融市場の時計がある。
役所には役所の時計がある。
税金や保険料にも、それぞれの締切という時計がある。
社会学者エヴィアタル・ゼルバベルには、『隠れたリズム――社会生活におけるスケジュールとカレンダー』(Hidden Rhythms: Schedules and Calendars in Social Life)という著作がある。タイトルの通り、社会生活を成り立たせているスケジュールやカレンダーのリズムに注目した本である。
この「隠れたリズム」という表現は、社会的時計を考えるうえでかなり示唆的だ。
私たちは、時計を見て生活しているようで、実際にはスケジュールに従って生活している。
何時か、だけではない。
何曜日か。
月初か月末か。
平日か休日か。
FXや株式の市場が開いているか閉じているか。
イベント期間中か終了後か。
支払期限の前か後か。
こうした区切りは、時計の文字盤だけを見ていてもわからない。
しかし、私たちの行動は確実にそれらによって変化する。
たとえば会社員であれば、月曜の朝と金曜の夜はまったく違う意味を持つ。
どちらも同じ一時間であり、同じ60分である。
しかし、体感は違う。
月曜の朝は始まりであり、金曜の夜は解放である。
学生にとっては、始業チャイムと終業チャイムが一日を区切る。
育児中の人にとっては、子どもが起きる時間、食事の時間、登園や登校の時間、寝かしつけの時間が一日を区切る。
夜勤の人にとっては、朝が一日の終わりになることもある。
トレーダーにとっては、経済指標の発表時刻、市場のオープン、週末クローズが時間感覚を作る。
ソシャゲユーザーにとっては、デイリー更新、イベント開始、イベント終了、ログインボーナスの切り替えが一日の境界になる。
つまり、社会的時計とは「その共同体やシステムに参加した瞬間、自動的に身体に入り込んでくる時間の区切り」だと言える。
会社に入れば、会社の時計が身体に入る。
学校に入れば、学校の時計が身体に入る。
子育てを始めれば、子どもの時計が身体に入る。
ソシャゲを始めれば、ゲームの時計が身体に入る。
FXを始めれば、市場の時計が身体に入る。
社会的時計は、外から見ればただの時刻表にすぎない。
しかし、その中に参加している人間にとっては、生活そのものを動かすリズムになる。
三層の時計

ここで、社会的時計を少し図式化してみたい。
私たちの時間感覚は、おそらく一つの時計だけでできていない。
少なくとも、三つの層に分けて考えることができる。
| 層 | 名称 | 内容 | 例 |
|---|---|---|---|
| 第一層 | 基準時計 | 社会全体で共有される標準時 | 日本標準時、0時、カレンダーの日付 |
| 第二層 | 共同体時計 | 所属する組織・制度・サービスの時間 | 会社、学校、ゲーム、金融市場、役所 |
| 第三層 | 個人時計 | 自分の生活感覚としての区切り | 起床、就寝、作業終了、「おやすみ」 |
第一層は、もっともわかりやすい時計だ。
日本に住んでいれば、日本標準時に従う。日付は0時に変わる。カレンダーは1月1日から始まり、12月31日に終わる。
しかし、それだけでは生活は説明できない。
第二層には、会社や学校、ゲーム、金融市場などの時計がある。
これらは公的な標準時を使いながらも、それぞれ固有の区切りを持つ。
会社は9時に始まり、18時に終わるかもしれない。
学校はチャイムで区切られる。
ソシャゲは0時や5時に更新される。
FX市場は土日を挟み、月曜朝に再開し、夏時間と冬時間でも区切りが変わる。
役所は平日昼間にしか開いていない。
税金や保険料には納付期限がある。
第三層には、個人時計がある。
これは、自分の身体と感覚の時計だ。
眠くなる時間。
集中できる時間。
作業を終えたい時間。
「今日はもう終わった」と感じる瞬間。
「おやすみ」と言って、意識を一日の外へ出す瞬間。
この三つの時計が一致している人は、かなり安定した時間感覚を持ちやすいのかもしれない。
たとえば、朝起きて会社に行き、夜に帰宅し、0時前に寝る生活であれば、基準時計、共同体時計、個人時計は比較的そろいやすい。
しかし、私の場合はそうではない。
0時に公的な日付が変わる。
5時に中華系ソシャゲの一日が変わる。
7時にFX市場の一日が始まる。
仕事はフリーランスなので、決まった始業時間も終業時間もない。
夜型傾向もある。
仕事が少ない時期には、会社員的な曜日感覚も薄くなる。
その結果、私は一つの時計ではなく、複数の時計の重なりの中で生活している。
以上のように、三層の時計は現代人のライフスタイルの根源となっているとさえ言える。
複数の時間体系の交差点で生活している

「人によって時間感覚が違う」という話は、そこまで珍しいものではない。
朝型の人と夜型の人では違う。
会社員とフリーランスでは違う。
学生と社会人では違う。
育児中の人と独身者では違う。
日勤の人と夜勤の人では違う。
「1分間の長さ」という意味でも人によって時間感覚は違う。
ここまではわかりやすい。
だが、私がより重要だと思うのは、人によって社会的時計が違うだけではなく、一人の人間の中にも複数の社会的時計が共存するということだ。
現代人は、単一の共同体だけに所属しているわけではない。
会社に所属しながら、家庭にも所属する。
学校に通いながら、SNSにも所属する。
日本に住みながら、海外発のオンラインゲームをプレイする。
昼は仕事の時計で動き、夜は趣味の時計で動く。
平日は会社の時計に従い、休日は家族の時計に従う。
国内の生活をしながら、海外市場やグローバルサービスの時間にも接続する。
私の場合、その交差点にあるのがソシャゲとFXだった。
日本のソシャゲは、0時に日付が変わることが多い。
中華系ソシャゲは、5時に日付が変わる。
FX市場では、7時に新しい一日が始まる。
これらは、それぞれ別のカレンダーを持っている。
同じスマホの中に、0時で切り替わるカレンダーと、5時で切り替わるカレンダーが同居している。
同じ生活の中に、ゲームのカレンダーと、金融市場のカレンダーが同居している。
これは、単に「趣味が多い」という話ではない。
参加しているシステムごとに、一日の始まりと終わりが違うということだ。
私は一つのカレンダーで生活しているつもりだった。
しかし実際には、いくつものカレンダーが重なった場所に立っていた。
これを「多層的なカレンダー」と呼んでみたい。
| 時間体系 | 日付変更・重要な区切り | 私に与える影響 |
|---|---|---|
| 公的なカレンダー | 0時 | 日付が変わる、一般的な一日の切り替わり |
| 日本ソシャゲ | 0時 | デイリー、ログイン、イベント更新 |
| 中華系ソシャゲ | 5時 | もう一つのデイリー更新、一日の再切り替え |
| FX市場 | 7時 | スワップ、市場日、週明け・週末の感覚 |
| フリーランスの仕事 | 納期・取材時間 | 自分で時間を組むが、締切には従う |
| 個人の生活 | 睡眠・「おやすみ」 | 体感としての一日の終了 |
この表を見ると、私の一日は単純に0時で終わっていないことがわかる。
むしろ私は、0時、5時、7時という複数の境界をまたぎながら、一日を終わらせたり、始め直したりしている。
人それぞれ「今日が終わる瞬間」が違う
公的には、一日は0時に終わる。
これは間違いない。
だが、体感としての「今日」は、必ずしも0時に終わらない。
夜勤の人にとっては、朝に仕事が終わって帰宅した瞬間に「今日が終わった」と感じるかもしれない。
会社員にとっては、退勤した瞬間に今日が終わるかもしれない。
学生にとっては、授業や部活が終わった瞬間かもしれない。
育児中の人にとっては、子どもが寝た瞬間かもしれない。
ソシャゲをしている人にとっては、デイリーを消化した瞬間かもしれない。
トレーダーにとっては、相場を見なくてよい状態になった瞬間かもしれない。
つまり、「今日が終わる瞬間」は人によって違う。
さらに言えば、一人の中でも複数ある。
私は0時を迎えると、たしかに日付が変わったと感じる。
しかし、5時にもまた別の意味で日付が変わる。
そして7時になると、FX市場の新しい一日が始まる。
このとき、奇妙な感覚が生まれる。
0時に「今日」は一度終わったはずなのに、5時にもう一度終わる。
5時にゲームの一日が切り替わったはずなのに、7時に市場の一日が始まる。
公的な日付、ゲームの日付、市場の日付がズレながら重なっている。
そうなると、「今日」と「明日」の境界が解体されていく。
今日とは何か。
明日とは何か。
一日はどこで終わるのか。
その問いは、単なる生活リズムの問題ではない。
どの社会的時計に従っているのか、という問題でもある。
「おやすみ」は一日を閉じる言葉である
ここで、「おやすみ」という言葉についても考えたい。
「おやすみ」は、ただの挨拶ではない。
それは一日を閉じるための言葉でもある。
人は「おやすみ」と言うことで、その日の活動を終える。
相手とのコミュニケーションを閉じる。
仕事やゲームやSNSから離れる。
自分の意識を、今日の外へ出す。
眠って起きれば"明日=次の今日"になる。
もちろん、眠れない日もある。
「おやすみ」と言ったあとにスマホを見てしまうこともある。
相場が気になって、もう一度チャートを開いてしまうこともある。
ソシャゲのデイリーを消化していないことを思い出すこともある。
それでも、「おやすみ」という言葉には、今日を終わらせようとする力がある。
これは個人時計の儀式だ。
公的なカレンダーは0時に日付を変える。
ゲームは0時や5時にデイリーを切り替える。
FX市場は7時に新しい一日を始める。
しかし、自分の一日を本当に閉じるのは、「おやすみ」という言葉なのかもしれない。
人間は社会的時計に従って生きている。
だが、完全に外部の時計だけで生きているわけではない。
自分の中にも、一日を閉じるための時計がある。
その時計が壊れると、一日は終わりにくくなる。
0時を過ぎても終わらない。
5時を過ぎても終わらない。
7時になって市場が始まってしまう。
気づけば、今日が終わらないまま次の今日が始まっている。
「おやすみ」と言えることは、意外と大事なのだと思う。
私は時間に追われていたのではなく、複数の時計に追われていた
よく「時間に追われている」と言う。
仕事に追われる。
締切に追われる。
予定に追われる。
日々に追われる。
私も、自分は時間に追われているのだと思っていた。
だが、よく考えると、時間そのものが私を追いかけてくるわけではない。
一秒、一分、一時間という抽象的な時間が、意思を持って私を急かしているわけではない。
私を追っていたのは、もっと具体的なものだった。
0時に更新されるゲーム。
5時に切り替わる別のゲーム。
7時に始まるFX市場。
仕事の納期。
取材の開始時間。
請求日。
支払い期限。
イベントの終了日。
スワップの3倍付与日。
週明けの相場。
週末のクローズ。
それらが、私に「今やるべきこと」を突きつけてくる。
だから私は、時間に追われていたのではない。
複数の時計に追われていたのだ。
この違いは大きい。
「時間に追われている」と言うと、相手があまりにも大きすぎる。
時間そのものから逃げることはできない。
時間を止めることもできない。
時間を消すこともできない。
だが、「複数の時計に追われている」と考えると、少し違って見えてくる。
どの時計に従うのか。
どの時計を優先するのか。
どの時計から距離を取るのか。
どの時計は無視してもいいのか。
どの時計は自分を支えているのか。
どの時計は自分を疲弊させているのか。
そう考える余地が生まれる。
時間そのものは選べない。
だが、どの社会的時計に自分を接続するかは、ある程度選べる。
もちろん、完全に自由ではない。
仕事の時計、税金の時計、役所の時計、家族の時計は、簡単には無視できない。
それでも、すべての時計に同じ強さで従う必要はない。
私は、時間を管理する前に、自分がどの時計に支配されているのかを見なければならなかったのかもしれない。
時計は拘束する
社会的時計には、まず拘束機能がある。
これはわかりやすい。
会社の始業時間は、人を朝に起こす。
学校のチャイムは、人を席に着かせる。
締切は、人に作業を終わらせる。
役所の受付時間は、人の行動可能時間を制限する。
ソシャゲのデイリー更新は、人にログインを促す。
イベント終了時刻は、人に消化を迫る。
FX市場は、相場が動いている時間に意識を向けさせる。
時計は人を縛る。
特にデジタルサービスの時計は強い。
なぜなら、それは人間の都合ではなく、システムの都合で正確に切り替わるからだ。
0時になれば更新される。
5時になれば切り替わる。
イベント終了時刻を過ぎれば、もう参加できない。
ログインしなければ、報酬を逃す。
相場が動けば、評価損益も動く。
そこには曖昧さがない。
人間の側が眠くても、疲れていても、気が乗らなくても、システムは時間通りに動く。
この点で、社会的時計はかなり冷たい。
人間の体調や気分に合わせてはくれない。
むしろ、人間のほうが時計に合わせることを求められる。
ソシャゲは楽しい。
FXも面白い。
しかし、それらは同時に時間を奪う。
楽しいからこそ、見る。
利益や損失が動くからこそ、見る。
報酬を逃したくないからこそ、ログインする。
チャンスを逃したくないからこそ、相場を確認する。
こうして、時計は生活の中に入り込む。
自分で選んだ趣味や投資であっても、いつの間にか自分を拘束する時計になる。
しかし、時計は支えでもある
ただし、社会的時計を「人を縛る悪いもの」とだけ見ると、重要な半分を見落とす。
・社会的時計は、人を拘束する。
・しかし同時に、人を支えてもいる。
特に私のように、フリーランスで、定時出勤がなく、仕事量も時期によって変わり、夜型傾向もあり、会社員的な曜日感覚から離れやすい生活をしていると、それがよくわかる。
もし何の時計もなければ、曜日感覚はかなり薄くなる。
月曜も火曜も水曜も、あまり変わらなくなる。
土日も、絶対的な休日ではなくなる。
仕事が少ない時期には、今日が何日なのか、今が月の前半なのか後半なのかも曖昧になりやすい。
その中で、ソシャゲやFXの時計は、生活にリズムを与えている(支えている)。
ソシャゲのデイリー更新によって、一日が切り替わったことを知る。
週課によって、一週間の進行を感じる。
イベント終了日によって、月日の流れを意識する。
FXのスワップ3倍日(たいてい水曜日)によって、曜日を意識する。
週末に市場が閉じることで、土日を感じる。
月曜朝に市場が再開することで、週明けを感じる。
これは拘束であると同時に、同期でもある。
私はソシャゲやFXによって時間を奪われている。
しかし同時に、それらによって社会と接続している。
完全に自由な時間は、一見すると理想的に見える。
だが、何の区切りもない自由は、人を漂流させることもある。
今日は何曜日なのか。
今は月のどのあたりなのか。
社会は動いているのか休んでいるのか。
自分は今、どの時間帯にいるのか。
社会的時計は、それを教えてくれる。
ここで、社会的時計の二つの機能を整理できる。
| 社会的時計の機能 | 内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| 拘束機能 | 人を時間に縛り、行動を促す | デイリー更新、締切、市場開始、イベント終了、納付期限 |
| 同期機能 | 人を社会や共同体のリズムに接続する | 曜日感覚、週末感、月初・月末、市場の休場、イベント進行 |
この二面性が重要だ。
社会的時計は、私たちを縛る。
だが、縛るからこそ、私たちを社会につなぎ止めてもいる。
会社の時計は、人を出勤に縛る。
しかし同時に、生活に平日と休日のリズムを与える。
ゲームの時計は、プレイヤーをログインに縛る。
しかし同時に、イベントを共有する感覚を与える。
市場の時計は、トレーダーを相場に縛る。
しかし同時に、世界経済のリズムに接続させる。
拘束と同期は、表裏一体である。
自由な時間にも、時計は入り込んでくる
私はいま、会社員的な時間からはある程度離れている。
毎朝決まった時間に出社するわけではない。
決まった勤務時間があるわけでもない。
平日と休日がはっきり分かれているわけでもない。
仕事量によっては、かなり自由に時間を使える日もある。
一見すると、これは自由な生活だ。
しかし、会社の時計から離れたからといって、時計そのものから自由になったわけではない。
むしろ、別の時計が入ってくる。
ソシャゲの時計。
FX市場の時計。
取材の時計。
納期の時計。
支払いの時計。
税金の時計。
睡眠の時計。
自分の体調の時計。
会社の時計に従っていれば、少なくとも一日の大枠は会社が決めてくれる。
朝起きて、出勤して、働いて、帰宅して、寝る。
そのリズムが良いか悪いかは別として、生活の輪郭ははっきりする。
しかし、会社の時計から離れると、その輪郭を自分で作らなければならない。
そのとき、自由はただの解放ではなくなる。
自由は運用すべきものになる。
どの時計に従うか。
どの時計を弱めるか。
どの時計を生活の支柱にするか。
どの時計を切るか。
どの時計と距離を取るか。
自由な時間を持つほど、時間の運用が必要になる。
ここで私の「自由論(自由の運用)」と「時間論」はつながってくる。
自由とは、単に拘束がない状態(Freedom)ではない。
拘束がなくなったあと、自分で生活を組み立てること(自由の運用、時間の運用)でもある。
会社の時計から解放された人間は、時計のない世界に出るわけではない。
むしろ、複数の時計を自分で選び、調整し、運用する世界に入る。
これは簡単なことではない。
自由なはずなのに、忙しい。
自由なはずなのに、落ち着かない。
自由なはずなのに、常に何かに追われている。
その理由の一つは、自由時間の中に複数の社会的時計が入り込んでいるからだ。
社会的時計を意識すること
社会的時計の厄介なところは、普段はそれを時計だと意識しないことにある。
会社の始業時間は、明らかに時計だ。
学校のチャイムも、明らかに時計だ。
電車の時刻表も、明らかに時計だ。
だが、ソシャゲのデイリー更新を時計として考える人は少ない。
FXのスワップ付与日を時計として考える人も少ない。
SNSの投稿タイミングや反応の流れを時計として考える人も少ない。
税金や社会保険料の納付期限も、生活の中では単なる手続きとして処理されがちだ。
しかし、それらはすべて時間感覚を作っている。
人は、自分が所属している時間体系をあまり意識しない。
学校に通っていれば、学校の時間に従う。
会社に入れば、会社の時間に従う。
ゲームを始めれば、ゲームの時間に従う。
投資を始めれば、市場の時間に従う。
所属することは、その共同体の時計を身体に入れることでもある。
そして現代では、その所属先が増えている。
会社、学校、家庭、地域だけではない。
オンラインゲーム、SNS、グローバルサービス、金融市場、サブスク、配信、イベント、電子決済、税務システム。
私たちは、さまざまなシステムに接続しながら生活している。
接続が増えるほど、時計も増える。
便利になるほど、時間の区切りも増える。
自由になるほど、自分で調整しなければならない時計も増える。
社会との接点が増えるほど、同期すべきリズムも増える。
だから現代人は、単に忙しいのではない。
複数の時計を同時に抱えているのだ。
どの時計に従うのか
社会的時計を考えることは、自分の生活を見直すことでもある。
自分は、どの時計に従っているのか。
どの時計に追われているのか。
どの時計に支えられているのか。
どの時計が自分を疲れさせているのか。
どの時計が自分を社会に接続しているのか。
この問いは、単なる時間管理術とは違う。
時間管理術では、予定を整理する。
タスクを分ける。
優先順位をつける。
カレンダーに入力する。
締切から逆算する。
もちろん、それも大事だ。
だが、その前に見なければならないものがある。
自分の生活には、そもそも何個の時計が入り込んでいるのか。
これを見ないまま時間管理をしようとしても、うまくいかない。
なぜなら、問題はタスクの多さだけではないからだ。
複数の時間体系が同時に自分を動かしていることこそが、疲労や混乱の原因になっている場合がある。
私は、時間に追われていると思っていた。
しかし実際には、複数の時計に追われていた。
そう考えると、必要なのは「もっと効率よく動くこと」だけではない。
ある時計から距離を取ること。
ある時計を弱めること。
ある時計を生活の支柱として認めること。
ある時計を意識的に使うこと。
ある時計には、あえて従わないこと。
これらを意識的にすること、それもまた、現代の時間の運用なのだと思う。
職業を選ぶ時代から、時間体系を選ぶ時代へ

これまで、働き方を考えるときには「どんな職業に就くか」が中心だった。
会社員になるのか。
公務員になるのか。
自営業になるのか。
フリーランスになるのか。
専門職になるのか。
副業をするのか。
もちろん、いまでも職業選択は重要だ。
しかし、現代ではそれだけでは足りないのかもしれない。
どんな仕事をするかだけではなく、どんな時間体系で生きるか。
この問いが重要になっている。
朝型の仕事か。
夜型でも成立する仕事か。
平日中心か。
土日も動く仕事か。
オーソドックスなワークスタイルか。
常駐型か。
市場と連動する仕事か。
オンラインサービスの更新に合わせる生活か。
家族の時間を中心にする生活か。
自分の体調の時計を優先できる生活か。
これは、職業選択というより、時間体系の選択である。
私は、フリーランスとして会社の時計から離れた。
その一方で、ソシャゲとFXという別の時計に強く接続している。
その生活は、自由であると同時に、複数の時計を運用する生活でもある。
会社の時計から離れれば自由になる、という単純な話ではない。
会社の時計から離れたあと、どの時計を自分の生活に入れるのか。
その時計とどう付き合うのか。
そこまで考えなければ、自由な時間はすぐに別の時計によって埋め尽くされる。
だから、これからの時代には「どんな時間の中で生きたいか」という問いが重要になる。
どんな仕事をしたいか。
どれくらい稼ぎたいか。
どんな場所に住みたいか。
それらと同じくらい、"どんな時計に従って生きたいか"を考える必要がある。
私たちは、いくつもの時計のあいだで生きている
私たちは、同じ日本標準時の中に生きている。
だが、同じ時間を生きているわけではない。
誰かは会社の時計で生きている。
誰かは学校の時計、誰かは育児の時計、誰かは介護の時計、誰かは市場の時計、誰かはゲームの時計、誰かはSNSの時計で生きている。
誰かは自分の体調の時計と向き合っている。
そして現代では、一人の人間がそれらを複数同時に抱えることも珍しくない。
一日は0時に終わる。
それは公的には正しい。
しかし、人間の生活はそれほど単純ではない。
0時に終わる一日もある。
5時に終わる一日もある。
7時に始まる一日もある。
仕事が終わった瞬間に終わる一日もある。
子どもが寝た瞬間に終わる一日もある。
「おやすみ」と言えた瞬間に、ようやく閉じる一日もある。
私たちは時間に追われているのではない。
いくつもの時計のあいだで生きている。
問題は、時計をなくすことではない。
時計から完全に自由になることでもない。
どの時計に従うのか。
どの時計に支えられているのか。
どの時計に疲れさせられているのか。
どの時計を自分の生活から少し遠ざけるのか。
それを意識することなのだと思う。
社会的時計は、私たちを拘束する。
しかし同時に、私たちを社会に同期させてもいる。
だからこそ必要なのは、時計を敵視することではない。
自分がどの時計で生きているのかを知ることだ。
一日はどこで終わるのか。
その答えは、時計の針だけでは決まらない。
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