8月6日、土曜日。
起きようか起きまいかと布団の中でうなっている間、町内に放送が流れて黙祷の時間となったが、今日は8月6日か。1945年の広島への原爆投下。こんな早い時間だったのか、と思いつつ起きるのを諦める午前8時15分。
昨年末くらいに公開された山田洋二監督の『母と暮らせば』はなかなかよかったけど、こっちは長崎か。8月9日午前11時02分。
吉永小百合がかわいかった。
一年ほど前に書いた文章。読み返してみると奇跡的にまとまりの良い文章だな、と自画自賛。内容との合致性を考えると不安になるけども。
「庶民的な個々の人々の意思の集まることによりアメリカの国家性が表れてくる。とりわけ、9.11の時期とも重なっている影響が濃く、その文脈は3.11直後の『絆』の氾濫に似た煙たさもある。オースターの書く実話を読むと小説との境目がわからなくなる。」
9.11後と3.11後の国民の感情は「自分たち可哀そう」、「結束せにゃあかん」というものでナショナリズム的愛国心が集合意識的に芽を出すあたりが近いわけだけど。でも、アメリカの場合はそれが自分たちの政府によって作られたモンスターであっても、明確な敵がいたばかりに攻撃性が強くなる。
一方日本はというと、東京電力と政府が怒りの標的として目の前にあったというのが象徴的かもしれない。いわゆる「内ゲバ」状態になる。本当の敵は自然災害なわけだけど、実際原発がなくて、あったとしても適切な事前の対策と事後の対応をしていれば被害は広まらなかったわけだから。
なんにしても、アメリカ文学にしても日本文学にしても、そういう共通の集合意識が出来上がってしまうと、未だに文芸誌なんか読むとやたらと3.11に絡むような話だったりして、それだけで読む気をなくす。極端に言えば、「同じことしか言えなくなる」。不可抗力でもそれは思考として終わっている。
実際、複数の作家が同じ立ち位置とか設定で物語を書いてしまうっていうのは、大きな事件があれば自然なことで、不可抗力なんだとおもう。それはそれで面白い共通意識の流れだとおもうけど、雑誌や本を読む読者からすればただただマンネリ。
編集者は未だに感傷に浸っていて、理性を失っているのか。または、読者が感傷的な物語を求め続けているのか。血が通いすぎていて、生臭さを感じてしまう、自分なんかは。
- 作者: ポールオースター,Paul Auster,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/12/21
- メディア: 文庫
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