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「どんぐりと山猫」について―異界と「デクノボー」―

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新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

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■「どんぐりと山猫」の本文とあらすじ
http://d.hatena.ne.jp/sibafu/20110118/1295304996




  以下は、宮沢賢治の短編童話「どんぐりと山猫」についての、私なりの解釈です。



■異界への行き方
  「どんぐりと山猫」(宮沢賢治作)は一九二四年刊行の『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』に収録された。「どんぐりと山猫」は巻頭に置かれている。そこに賢治の自信が現われているかは分からないが、異界へ踏み込んで帰ってくるという主人公の一郎の道程からすれば、これが巻頭にあることはふさわしいとおもう。


  とつぜん「おかしなはがき」が来ること、馬車別当に会うまでの栗の木へ道を尋ねるが「おかしいな」と思いつつも、それを四回繰り返すことなどが儀式的で、幻想的な「イーハトヴ」の世界へ読者が入り込んでいくための入口のように思える。例として、二度目の笛ふきの滝と四度目の栗鼠との一郎の会話を以下に引用する。



  「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」
  「おかしいな西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあもう少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」


  「やまねこなら、けさまだくらいうちに馬車がみなみの方へ飛んで行きましたよ。」
  「みなみへ行ったなんて、二とこでそんなことを言うのはおかしいなあ。けれどもまあもう少し行ってみよう。りす、ありがとう。」


  一郎は四回も道を尋ねているのだが、すべてに「おかしいな」と言っている。栗の木たちの答えはまったく役に立っていないし、一郎は教えてもらった方向とは関係なく自分が向かいたい方へと歩いているように見える。しかし、それでも馬車別当の待っている場所へ着くことができてしまう。


  そもそも、山猫から届いた手紙には「あした」というように日付の指定はあるが、裁判所の場所は全く書かれていない。それにもかかわらず、道に迷いながらではあるが、一郎はその場所へ行けることを信じて、「なんだかおかしいけど、歩いていけばそのうち着くだろう」とでもいうように、自分が裁判に参加できることを妄信している。


  また、ちぐはぐの道を教えられて「おかしいな」と思いつつも、それぞれにしっかりと「ありがとう」と感謝の意を表していることが、ここではその問答自体に意味がないことを強調しているようで、一層儀式的に見える。


  また、一郎のなにがなんでも山猫に会えるという妄信が、異界へ入り込める資格だったと言えるだろう。その資格は、「童心」と言い換えられる。一郎の元に山猫から葉書が届いたのは童心があったからだろう。それとは対照的なのが、一郎が裁判を終えて家に帰ってからは二度と葉書が来なかったことだ。


  おそらく、一郎が同じ場所へ行こうとしても二度と行けなかっただろう。その理由は、物語の始めは「おかしなはがき」も奇妙に思わず受け入れているにもかかわらず、「これからは、用事これありに付き、明日出頭すべしと書いてはどうでしょう。」という山猫の提案を、一郎は断ってしまったからだ。本人が最後に「やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかった」と反省しているように、初めの「おかしなはがき」を受け入れたことと、山猫の提案を否定したことは矛盾するのだ。なぜなら、どちらも山猫のただ形式的な遊戯にすぎずそこに意味はないにもかかわらず、一郎は童心から脱して理性的判断を持ちだしてしまったからだ。


  もし、一郎が反省しているように提案を受け入れれば、また葉書が来たかもしれない。




■「デクノボー」
  「どんぐりと山猫」に関する先行資料には、「デクノボー」に言及しているものが多い。「デクノボー」は詩「雨ニモ負ケズ」に出てくる表現である。


  「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」(『新編 宮澤賢治詩集』より一部を抜粋)


  この詩のみを読んだ場合、「デクノボー」という表現は少し分かりにくいかと思える。しかし、「デクノボー」とそのままの言葉で書かれていなくとも、この詩でのそれに近い主義のようなものや登場人物が、賢治の作品には出てくる。


  例えば吉田精一の「『鑑賞宮澤賢治選集』解説・鑑賞 〔抄〕」では、「宗教的といふよりも、人生観といつた方がよいかも知れぬが、『気のいい火山弾』『虔十公園林』『どんぐりと山猫』などのデクノボウの境地を讃えてゐるものに分ちうる」というように、分類されている。それぞれの作品の、みんなから馬鹿にされている火山弾のベゴ石と、軽度の知的障害者の虔十、「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないような」どんぐりが「デクノボー」と言い換えられるだろう。


  また、この物語では「デクノボー礼賛」を主としているという意見も多く見受けられるが、それはどうだろうか。確かに一郎は、「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなやつがいちばんえらいとね」と言ってはいるが、この作品の主眼は「えらい」ことではなく、人間(どんぐり)の中での優劣の判断を批判していることだ。


  人間の視点からすればどんぐりの個性など「どんぐりの背くらべ」であろうが、人間対人間の比較も別の視点からすれば「人間の背くらべ」のようなものだ、ということをこの物語は語っている。その別の視点とはまさしく「デクノボー」の視点ということになるだろう。「雨ニモ負ケズ」にあるような「デクノボー」はえらいのではない。なりたくてもなかなかなれない存在ということで、例えば無欲な人間になる難しさを語っているように思える。




■参考文献
1. 続橋達雄編『宮澤賢治研究資料集成 第6巻』(一九九〇年六月、日本図書センター)、吉田精一「『鑑賞宮澤賢治選集』解説・鑑賞 〔抄〕」(p87〜115)
2. 船木枳郎著『宮沢賢治童話研究』(一九七二年八月、大阪教育図書)
3. 佐藤泰正編『文学における風土』(一九八九年一月、笠間書院)
など





(2011.12.13、再編集)