せっかく、武田泰淳の『ひかりごけ』の名前を出したのだから*1、こちらに関しても、もう少しだけ詳しく話したいと思う。
個人的にとても印象に残っている作品であるから、特にきっかけが無くともこの作品は時々思い浮かべることがある。一度この作品に関連した夢を見たことがあり、それもまた強烈な印象を残すことに手伝っている。
「カニバリズム」という言葉をご存じだろうか。いわゆる、食人、人肉嗜食、人間同士の共食いである。それをモチーフとして扱っている。私自身も、カニバリズムを実際の映像や写真などで見るのは出来るだけ避けたいが、カニバリズムは文学のモチーフとして非常に深く問いかけてくるものがあると考えている。
大岡昇平の『野火』にも、カニバリズムの描写があるのだが、こちらも『ひかりごけ』も強く印象に残っている。そして、この二つの作品は同じくらいに好きだ。
双方とでは、カニバリズムの捉え方が違っていたと記憶しているが、どのような作品にしてもモチーフとしてのカニバリズムには、強く訴えかけてくるものがあると感じられる。
例えば、我々は普段いろいろな動物の「肉」を食べているが、なぜ人間の「肉」を食べないのかとか。死んでいる人間の「肉」なら、腐っている「肉」ならば食べていいものかどうかとか。
法律的、心理学的、哲学的問題がそこには含められていて、文学における恰好の題材だと思われる。
これは文学ではないが、『ラビナス』という洋画が、コメディなのかシリアスなのかよくわからない作風でカニバリズムを取り扱っている。これは文学作品とは大分角度が変わるものの、面白いので機会があれば観ていただきたい。また、極寒の地が舞台となっていることが『ひかりごけ』と共通する。
個人的にスコットランドのもので有名なバグパイプという楽器が好きなのだけど、その音響が前面に出ている音楽が作品内でとても印象的なシーンを創りだしている。そのシーンの素っ頓狂具合とカニバリズムが持つシリアス性の融合が生みだす刺激的シーンを高く評価したい。
ここからはより個人的なことになるが、『ひかりごけ』との出会いというのは、「文学批評」の時間においてであった。「文学批評」と言われて勘付く人が、読んでいただいている方々の中のほんの数人だがいるだろうと思う。ついでに言えば、ロラン・バルトともバルトの「作者の死」との出会いもその時間においてであった。
「文学批評」の時間というのは、私に歴史文化の遺産を計り知れない意義あるものとして授けてくれた。『ひかりごけ』と「作者の死」の二つをその代表として挙げるが、他にも意義ある遺産はたくさんあった。それらは、私の思想とか主義とかの文学や他の学問にしても、学問に接する為の基礎工事として、今や掛替えのないものとなっている。
この時間のテクストというのは、生涯の財産になるだろう。その時間の代わりとして足り得る時間というものと、未だに出会えずにいる絶望を味わっているからこそ、そう思わずにはいられない。
テクストの中身を全て理解できたわけではない。だからこそ、基礎基盤でありながらいつも還ってくるべき場所として、いつも傍に置いておきたい。
- 作者: 武田泰淳
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1964/01/28
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 80回
- この商品を含むブログ (68件) を見る
- 出版社/メーカー: 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
- 発売日: 2002/06/28
- メディア: DVD
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (2件) を見る