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上田秋成に見るアンビエント

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  上田秋成の『春雨物語』を現代語訳で読んでいて、こういう文章があって驚いた。

  雨が降って、宵の間から何の物音もしない。今夜は母親の戒めに背いてしまい、丑の刻(午前二時頃)になってしまったであろうか。雨はすでにやみ、風も吹いていない。月も出たとみえて窓が明るく映っている。詩歌の一つも作らなくてはと、墨をすり、筆を取って、今夜の風情を一、二句に託さんと思いをめぐらしていると、虫の音だとばかり思って聞いていた音に、時々鉦(かね)の音がまじり聞こえてくる。夜毎、あの音を聞いていたが、今夜はじめてそれに気付くとは、なんと不思議なことであった。
(神保五弥、棚橋正博訳『雨月物語春雨物語 ― 若い人への古典案内』、「二世の縁」、pp.165-166)


  アンビエントだと思った。昔の人も、上田秋成という人さえも聞こえるもの考えることは同じなんだな、と当たり前ながらも思った。驚きであり嬉しくもあった。


  今までと変わらない環境のはずが、今まで聞こえなかったものが聞こえる、という体験は稀にある。アンビエントの曲を流しながら、外から聞こえる虫の音や鳥の声が混ざり、曲なのか自然音なのかわからなくなり、曲を止めると外で音は続いていて自然音だとわかる。そういうプロセスで、今まで聞こえなかった音に気づくこともある。


  語り手の男が雨上がりの夜中に「詩歌を一つも作らなくては」と思うのは、その深夜の空間と無音の中の虫の音などを聞いているからで、それを書いたこの文章はアンビエントだと思った。文字によるアンビエント、と言うと変だけどそう思った。そして、その後のいつも聞こえなかった「鉦の音」に気くことまでがアンビエントと言っていいのかはわからないが。しかし、その「気づき」は音楽ではあるだろう。音楽とも言えるし音響とも言える。「気づき」という変化を得たわけで、それは何かの契機になる。


  この「鉦の音」によって自己が拡張されてゆくイメージ、と言えるかもしれない。それは変化がもたらす一つの可能性に過ぎないが。物語の続きとしては、「鉦の音」を聞いた男は下男たちに庭を掘れと命令して、地面の中から棺に入った魂の抜けた身体だけで鐘を打つ者がいた、という奇妙な話になっている。


  音を聞いた男は、その音さえ聞かなければその地中にいた奇妙な鐘つき男と出会うこともなく、その一つの奇妙な世界に入りこむことはなかった。それが良いか悪いかは問題ではなく、聞こえた「鉦の音」という音楽が男をその世界に導いた、という事実が大事だ。


  音楽自体が自己を拡張させる能力があり、アンビエントはことに現実との近似性ゆえに自己を現実へと導く能力が強いように思える。『春雨物語』のこの「二世の縁」の場合は奇怪ものの話だから幻想世界へと踏み込むのだが、現実的にはそんな世界はないわけで、私たちが「鉦の音」に気づいたとすればそれはより現実に強く結び付く契機にしかならないのだろう。


  自然音とか環境音とか居るその環境を含めて心地よい、という最初に引用した文章の前半のようなものは古典作品にもざらにあるだろう。そんなものはやはり誰でも思いつき、そして書くのだろう。でも、秋成は後半の「鉦の音」への気づきという観点も合わせて書いた。だから、秋成のこの文章はアンビエント的でも音響的でもあり私にとって稀有な価値を持っている。


現代語訳 雨月物語・春雨物語 (河出文庫)

現代語訳 雨月物語・春雨物語 (河出文庫)

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