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宮沢賢治作 「犬」 五、鑑賞と感想

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五、鑑賞と感想



■「犬」と「東岩手火山」


  この作品は1924年4月20日に刊行された『心象スケッチ 春と修羅』の詩篇『東岩手火山』に収められていて、制作日付は1922(大正11)年9月27日とされている。参考文献2に「例えば詩篇では『東岩手火山』に北斗、北極星、小熊、オリオン、大犬、蝎、金牛(牝牛)等が現われ」とあるが、これらはすべて詩の「東岩手火山」に登場する天体である。ほかに「月は水銀 後夜の喪主」、「(月光は水銀 月光は水銀」」や「黒い絶頂の右肩と/そのときのまつ赤な太陽/わたくしは見てゐる/あんまり真赤な幻想の太陽だ」というように、月と太陽も数多く現れる。「東岩手火山」の制作日付は1922(大正11)年9月18日とされていて、「犬」が作られた九日前でもある。この頃、実際に賢治は農学校の生徒を連れて岩手山を登山していた。詩の内容も「さうさう 北はこっちです/北斗七星は/いま山の下の方に落ちてゐますが/北斗星はあれです」といったように、会話体で賢治が生徒に天体の見方を教授しているように描かれている。また、童話「銀河鉄道の夜」は、『宮沢賢治大事典』の「銀河鉄道の夜」の項によれば、

入沢康夫の『宮沢賢治銀河鉄道の夜』の原稿のすべて』によれば、原稿は、一次稿から四次稿まであり、一次稿(初期形〔一〕)の執筆は「おそらくは一九二四(大正十三)年の秋から冬にかけてであっただろうと推測できる」とし、さらに「着想は一九二四年の夏で、着手はその秋」としている。」

とあるように、これらの作品と制作時期が近いことがわかる。「東岩手火山」と「銀河鉄道の夜」には、共に天体に関する用語が数多く登場し作品とも深く結びあっていて、賢治の天体への関心が満ち溢れているのがわかる。そういった時期に作られた「犬」という作品に、手掛かりがわずかであっても天体との関わりを意識し解釈するのはやはり妥当であろう。




■解釈の可能性


  しかし反対に、そういった作者の周辺情報を知らずに、このテクストと向かい合ったときには、解釈を天体と結び付けることは困難であるかもしれないし、まったく別の物事と関連させたような解釈が可能かもしれない。というのも、この作品は、「なぜ吠えるのだ」と初めに疑問提起をしていて、結句では「(〜なので)吠え出したのだ」と疑問が解決されているように、表面にある主題が明確に見え過ぎていることと、その主題の軽重さと、第二連のように見慣れない用語が並んでいることが相互作用して、テクスト全体が抽象的様相になることで、読者にテクストの多重構造の読解を要求しているのである。だから読者は、天体に限らず、表面にある意味以外に裏の意味を探ろうとするのである。




■賢治の心象


  例えば「蠕虫舞手」や「東岩手火山」などは、複数の話者が登場し会話で織りなされている構造の作品である。一方でこの「犬」は、連分けをすることもなく一息に、主体一人が外部を描出し自身の心象を描出している、それはモノローグとして。テクストはすべてエクリチュール(書かれたもの)であり、この場合賢治の心象である。心象が生まれるには外的要因が必要である。その第一要因は、薄明穹に浮かぶおおいぬ座こいぬ座という天体であった(参考文献1a,b)。そして「近所の犬に吠えたてられた体験の後遺」(『新宮沢賢治語彙辞典』)が二次的に追想される。それを「心象スケッチ」という形で作品に昇華させた、と解釈する。
  疑問に思ったのが、九日前に作られた「東岩手火山」にはあれほど天体用語が明確に記され、意気揚々と星座を語っているのに対して、「犬」では天体用語といえるようなものは辛うじて「薄明」くらいで、なぜこうもテクストの中身を読解されることを憚るようにぼかされているのか、ということである。
  おそらくそれは「犬」が、独白の形式をとっていることと関連がある。賢治のつぶやきがエクリチュールとして並べられテクストが成立しているのがこの作品である。その仕方が、読者への単なる告白ではなく、情報の秘匿が保持された「心象スケッチ」として記録されている。だから、ここでの天体というのは心象を引き起こす外部要因でしかなく、スケッチすべきは二次的に浮かんできた、「吠える」犬たちという風景と、「帽子があんまり大きくて/おまけに下を向いてあるいてきたので/吠え出したので」というと自己解決の結論であった。したがって、本作品は要因自体の描写よりも、要因による結果が表面的には主軸となり、スケッチされている。



■賢治と犬


  また、子供のころに心底怯えていた犬であっても、この作品でこうして犬について分析をしていることはその恐怖を理性的には克服しているように思える。しかし、犬が吠えてくることに三度も「なぜ」と問うていることや、最後の吠えられることの理由づけにしても暗示的に思えることから、「ちゃんと顔を見せてやれ/ちゃんと顔を見せてやれてと」というのは賢治の本能的な恐怖の表れであり、自身への言い聞かせであると思える。そうすると、「なぜ」から始まるこの作品全体が、吠える犬や吠えたてられる自分など、賢治の犬への恐怖の心象であり、(賢治にとって)理由なく吠えてくる犬への許しを請うているようでもある。




宮沢賢治作 「犬」 六、参考文献・資料
http://d.hatena.ne.jp/sibafu/20100605/1275664741




■リンク
宮沢賢治作 「犬」 一、作品

宮沢賢治作 「犬」 二、語釈

宮沢賢治作 「犬」 三、先行文献と参考資料

宮沢賢治作 「犬」 四、連ごとの分析

宮沢賢治作 「犬」 五、鑑賞と感想

宮沢賢治作 「犬」 六、参考文献・資料