囲碁と言えば、昔マンガの『ヒカルの碁』にはまって、ちょっとかじってみたくらいでまったくの素人だ。
でも、2016年3月12日のDeepMind(Googleが買収)のAlphaGo対イ・セドルの対局で、AI側が4勝1敗と勝ち越したニュースは衝撃だった。
それは、この対局の2か月ほどまえに、『WIRED』Vol.20のAI特集でAIが囲碁で人間に勝つにはあと10年くらいは掛かるんじゃないか、みたいな記事を読んでいたからだった。
そして、2016年4月刊行の『WIRED』Vol.22の記事で3ページだけだが、「GO: THE ULTIMATE MATCH 人類と人工知能の頂上決戦:目撃者4人の証言」で、3月の対戦について書かれていたのを読んだ。
「証言」をしているのは、マイケル・レドモンド(棋士。今回の決戦の実況中継を担当)、宮内悠介(SF作家)、高木秀和(囲碁ライター)、北川拓也(理論物理学者)の4人。それぞれの文章は短めだが、立場のちがう4人の視点のちがいがおもしろい。
その中でも、実況中継を行ったマイケル・レドモンドの発言をここで引用していきたい。
「DeepMindの研究者たちと接するなかで、AlphaGoは芸術作品であるという確信をもつに至った。」
「彼らは、わたしが思いつきで提案したような考えはすべて検討済みで、大変な作業の結果、この人工知能が生まれたのがわかったからだ。」
人間に勝ったあるいは越えた(と自分は考えているが)AlphaGoが「芸術作品」なのかも、という視点はもしかしたらそうかも、と思える。「芸術」とか「芸術作品」っていう定義が至極あいまな世界なわけで、個人的主観にすぎないが、AlphaGoの勝利から感じる気持ちには特別なものがある。
だが、マイケル・レドモンドが「AlphaGoは芸術作品である」という根拠を、研究者たちの試行錯誤や努力に定めている点が不可解でならない。
ゴッホが凄いから「ひまわり」が芸術なのか?モネが凄いから「睡蓮の池」が芸術なのか?ルノワールが凄いから「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」が芸術なのか?
自分の思考の限界からか、なぜか画家と絵画作品ばかり挙げてしまったが、作り手が凄いから作品は芸術だ、という論理は至極つまらない、としか言えない。
(ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」)
上に引用したマイケル・レドモンドの発言と思考もこういうつまらないものでしかない。
このつまらなさの原因は、マイケル・レドモンド自身が棋士であり、AIに負ける側あるいは飛び越される側だから、という面が強い。彼は、AI研究者とかプログラマではなく、言い方を変えれば芸術家だ。彼は囲碁をする者は棋譜や独特の定石や布石を作りだす芸術家、と考えているのかもしれない。その辺りがマイケル・レドモンドのAIに対する限界だった、と思える。
「わたしは、AlpaGoが人間を超えたとは思っていない。」
ただの棋士として、人間としての負け惜しみにしか聞こえないが。この後に続く言葉は興味深い。
「誰も予想できない手がもっと頻繁に出なければ、『布石の革命』は起こらないだろう。」
「布石の革命」という言葉の意味がいまいちわからないが、囲碁の進歩という意味で捉えると、AIの打つ囲碁にも人間の打つ囲碁にも、もっと広げるべき余地があるというようなことだろうか。
AlphaGoが人間を超えたか否かは別として、AIの囲碁がもっと進化すべきで、その余地がある、というのはその通りだろう。
その進化で自分が思うのが、AIはAIと囲碁の対局をしなければならない、ということ。今までは人間に勝つことが目標だったから、人間と対局していたのはわかるが、目標を達成したいま、AI対AIの囲碁を作り上げていけばもっとおもしろいことになるのでは、と楽しみになる。
こんなところで言われるまでもなく、DeepMindの研究者の方などはもう研究を始めているのかもしれないけど。
人工知能にも人間にも打てなかった、(人工)超知能同士でしか打つことができない定石が生まれるかもしれない。
超知能を作りだしてしまうことは危険性もあるのだけど、囲碁という人間の作ったルールの中限定の知能ならまだ安全そう。AIたちの生み出すAI囲碁によって、人間の棋士たちのプライドや常識は打っ飛んでしまいそうなものだけど。
- 作者: マレー・シャナハン,ドミニク・チェン,ヨーズン・チェン,パトリック・チェン
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今回の『WIRED』Vol.22の記事を読んでいてそんなことを考えた。
『WIRED』Vol.20のAI特集はかなりおもしろいのでオススメです。
ディープ・ラーニング(深層学習)を着想として作ったアンビエント・ミックス。