渋谷のイメージフォーラムで「だれも知らない建築のはなし」を見て、
目黒区美術館での展示「村野藤吾の建築−模型が語る豊饒な世界」を見て、
初台で「鈴木理策写真展 意識の流れ」を見てきた。
さすがに三軒は疲れる。
・「だれも知らない建築のはなし」
磯崎新、安藤忠雄、伊東豊雄、ピーター・アイゼンマン、チャールズ・ジェンクス、レム・コールハースという主に6人の建築家へのインタビューで構成されたドキュメンタリー。
新国立競技場についての会見での安藤忠雄さんの発言は無責任としか思えなかったが、この映画を見ると安藤さんが業界ではぐれものであり、しっかりとした主義を持っているということがわかる。
レム・コールハースは著書で書いているとおり発言も皮肉混ざりの同じ調子で痛快でもあった。
おもしろかった。
・「村野藤吾の建築−模型が語る豊饒な世界」
村野藤吾さんの設計による建築物の模型がたくさんあった。一部は写真撮影がOKで良いけど、模型を前にすると他のものもやっぱり撮りたくなる。
模型が無数にあるがどれも白いだけの骨組みなので、最後の方にはぜんぶ同じに見えてくる……。
・「鈴木理策写真展 意識の流れ」
鈴木理策さんは雑誌の『IMA』でたまに作品を目にしていたので気になってはいた。特徴がないようで、しっかりと作風がある写真家。
でも、やっぱりこの人の作品群の特徴はすくないし言葉で説明するのも難しい。ただの写真とただ綺麗な写真と鈴木理策の写真、この境界線はとても曖昧なのだけど、展示されている作品のほとんどが一人の写真家の作品として成立している。
写真単体としてだけでなく、動画が床や壁に流れているなど工夫もあり、会場全体の「流れ」が工夫されていて、ほんの少しインスタレーションアートの会場に近くもある。
全会場、全作品撮影OKなのはすごく心が広くて嬉しくおもう。
その反面、見る方は鈴木理策に試されているかのようなプレッシャーも感じるところ。
見るだけならそこに選択肢はないけど、写真を撮るあるいは撮りながら見る、という選択肢が発生するので。
来場者の見方という方法が増えれば見方による展示の見え方がとうぜん変わってくる。見方の良し悪しというものはないという前提で考えるとしても、というかむしろだからこそ、自分に合った見方を来場者は探るという不自由な自由さが生まれてしまう。
例えば、
「カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置。」
という一文が壁のパネルに書かれていて、こういうシンプルだけど複雑で言葉少なな作者の解説&謎かけがいくつか提示されている。
こういうカメラや写真についてメタ的に考えている鈴木理策さんだからこそ、写真撮影OKという作者の「許可」も展示のギミックとして意図的にOKしたようにおもえる。
・会場の写真
S,M,L,XL+: 現代都市をめぐるエッセイ (ちくま学芸文庫)
- 作者: レムコールハース
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