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アニメ雑考 -アニメでの親の存在-

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■『あらいぐまラスカル


  最近、『あらいぐまラスカル』をテレビで観ることが多い。たまたま食事をする時間に放送していることが多いので。


  このアニメはさんざん「名作、名作」と言われ続けているようだけど、今の若者にとっても十分楽しめる作品なんじゃないかとおもう。私は全話を通して観たことはなくて、最近観ていて面白さがわかってきたような気がする。


  さっき観た話は、主人公スターリングの母親が入院していた遠い街の病院から家に帰ってくる、というものだった。


  それで思ったのが、宮崎駿が関わる作品は両親や片親が居ないという設定が多いんじゃないか、ということだった。『あらいぐまラスカル』のWikipediaのページによれば作画にしか宮崎駿の名前がないので、『ラスカル』にはそこまで深くは関わっていないのかもしれない。


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宮崎駿関連作品


  アニメ『風の谷のナウシカ』を例にする。『ナウシカ』では、ナウシカの母親は作品の主な時間軸では既に死んでいて不在だ。父親は病気かなにかで寝たきりだが、物語の始めは生きている。しかし、物語の序盤でトルメキア軍の兵士に殺されてしまった、と記憶している。


  だから、観客の目にはナウシカの親はほとんど居ないも同然のように見えているかもしれない。それでもではなく、それだからか果敢に戦っていくのがナウシカだけれども。


  『崖の上のポニョ』でも同じように、両親の不在というモチーフは出てくる。


  父親の耕一は貨物船の船長であり、陸地にはいなくて海にいる。モールス信号で崖の上と海上に浮かぶ船とで交信をする場面はあるが、結局、作中で息子の宗介と再会する場面はなかったとおもう。


  母親のリサは物語の開始すぐに宗介と同時に出てきたとおもうが、中盤くらいから唐突に失踪のように、そして物語上強引に宗介の元を去る。リサが勤務している介護施設のことが心配だというので、家にいる宗介とリサを残して夜に車で出かけてしまう。そして朝になってもリサは帰ってこない。


  リサが帰ってこないので、宗介とポニョの二人で母親のリサを探しに行こうという、冒険が始まる。


  それ以外にも宮崎駿関連作品で、『未来少年コナン』、『天空の城のラピュラ』、『魔女の宅急便』などなど多くの作品で両親あるいは片親の不在がモチーフとしてある。




■ほかのアニメ、『ガンダム』など


  しかしもっと視野を広げて考えてみると、宮崎駿に限らずアニメ作品には両親の不在というモチーフがゴロゴロと転がっているのではないかと思い始める。


  『みなしごハッチ』というアニメなら、これはもうタイトルの通りだ。『機動戦士ガンダム』シリーズでも、このモチーフは多い。初代『ガンダム』であれば、アムロ少年はスペースコロニー(サイド7)で父親と二人暮らしをしている。父親ガンダム開発で忙しい研究者なので家にはあまりいることがない。アムロには母親がいるが、母は地球に残っている。


  初代『ガンダム』の場合、第一話の時点で両親ともに生きているのだがアムロは孤立した状況ということになる。その後、父親テム・レイは死に、母親カマリア・レイアムロは地球で再会するがすぐに別れることになる。


  初代の続編の『Zガンダム』でも、その続編の『ZZガンダム』でも両親の不在のモチーフが同様にある。


  『Zガンダム』では、物語序盤に主人公カミーユの両親は敵軍の手によって殺されてしまう。『ZZガンダム』では、テレビアニメ版(映像作品はこれだけだが)を全話観たが両親について話題に上がっていた記憶がない。主人公ジュドーにとって親などいないようなものにさえ感じられる。それくらいジュドーは親がいなくても逞しい存在に視聴者には映る。


  Wikipediaによると「彼[ジュドー]の両親は出稼ぎに出たまま不在の状態であった」ようだ。ジュドーの両親は第一話にも登場せず、それ以降最終話まで顔だけも声だけも出てくることはなかったとおもう。




■親という概念がないかのようなアニメ、『AKIRA


  数あるアニメのなかでは、『ZZガンダム』のように子供たちに始めから親という存在をかんじさせないものが稀にある。他に思い浮かぶのが『AKIRA』だ。漫画版では詳しい描写があったかもしれないが、アニメを観ただけでは「コイツらは親はいないのか?」という疑問が湧いてきそうなほどに親という存在が削り取られているようにおもえる。


  設定としては主人公金田もライバル鉄雄も児童養護施設出身なのだろう。『AKIRA』に登場する高校生くらいの青年たちに親の影はまったく見えない。物語の舞台がスラムのような東京であり、主要人物が暴走族のようなものだからだろうが。作品全体を通して、両親というものの存在が始めから度外視されていたような記憶がある。


  物語の世界で両親という概念自体が無視されているということは、『AKIRA』というアニメで注目すると面白いかもしれない。これは漫画版だっただけのシーンかもしれないが、鉄雄がネオ東京の「王」のように崇められる立場になったり、国を建国するような描写があったからだ。アニメと漫画の記憶がごっちゃになっていて曖昧だ。


  新世代とか新時代の者たちに両親という影は被らないほうが見栄えがいいのかもしれない。


  新世代の人類という意味では、『ガンダム』シリーズ(宇宙世紀)における「ニュータイプ」という概念はそのものだろう。新しい時代の人類のパイオニアとはならなかったが、アムロやシャア、ララァは人類の新しい父と母になるかのように見える立場でもあった。ララァは永遠にシャアの母親役と言える。シャアにもララァにも両親はいない。




■おわりに


  両親の不在がモチーフや設定としてあるアニメが多い気がするのだけれども、ということは売れたり人気が出るアニメの秘訣の一つがこれだと考えることができるかもしれない。


  両親を失ってみなしごになってしまった、という状況がマイナスだととらえて逆境だとするならば、冒険物のアニメでみなしごの主人公が強敵をやっつけたり仲間たちとの友情を育てていく物語には、視聴者が食いつくのが当たり前だろう。


  逆にいえばほのぼの系のアニメでは両親がいるのが不可欠ということだ。『サザエさん』、『ドラえもん』、『あたしンち』、『らきすた』など。『らきすた』は主人公こなたに父親はいるが、母親が早くに亡くなっている
という設定が作風のわりに意外で衝撃を覚えた。このなかでは、こなたの母親は例外になる。


  冒険物とほのぼの系アニメの二つでおおざっぱに比べれば、 以下のようになるだろうか。

冒険物:両親がいないほうが盛り上がる
ほのぼの系:両親の存在は不可欠


  つまり、宮崎駿関連作品に両親の不在のモチーフが多いのは冒険物のアニメが多いからということで一応結論が下せるかもしれない。この結論はどうでもいいのだけれども、アニメのジャンル毎で両親が居るか居ないかのちがいが出るということは言えるかもしれない。


  または、感動系のアニメも居ない場合が多いのかも。冒頭の『あらいぐまラスカル』は冒険物とはさすがに言えないので、自分でフォローしておく。どちらかといえば感動系でしょうね。




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