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死の床に横たわりて何をおもうか

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As Anne lay daying,Mike promised to love forever.
アンが死の床につくと、マイクは永遠に彼女を愛すると約束した。

  永遠に、つまり自身が死ぬまで、誰かを、それが生きているにしても死んでいるにしても愛し続けることは想像したくもない程に苦痛である、とこのとある例文を読んでまずそう思う。つぎに、苦痛というよりそれは困難なのではないかとも思う。思うに、「愛する」ことは唯一人を想うことに限定されている訳ではない。そして、そうマイクが「愛」を解釈するならば、マイクがアンへの愛するという行為を約束しつつも、他の対象へ愛する行為を向けてもそれは破戒にはならないのである。
  尤も、永遠に愛そうと誓えるほどの慕うこゝろを持てるということがどれだけ幸せであることか、とも思わずにはいられない。それが生きる上での頑なに動かない足枷になるとしても、それが愛という思い込みや相互の馴れ合いの果てだとしてもだ、そういった相手をこゝろに持てることはこの上ないことだと想像する。
  そういった生き方をした人物として、私が真っ先に思い浮かんだのはフィクションの話で申し訳ないが、『グッド・ウィルハンティング/旅立ち』という映画の、ロビン・ウィリアムズの演じるショーン・マグワイアという50歳前後の心理学の教授だ。彼は妻に先立たれてから、彼女を愛するあまりに愛への障壁を建ててしまっていた。私は、彼女を愛しながらでも他の女性を愛せるはずだ、と他人事だからそう思える。そして、今だから。

  また一方でおもうのは、葬式とおなじように、このマイクの永遠の愛への宣誓というものも、死人のためには決してならないということだ。

  例えば、カミュの『異邦人』においてムルソーは母親の葬式の直後に、たまたま出会った旧知の女性と情事にふける。このようなこの行為は、社会慣習的意見から激しく非難される。そのせいもあって、ムルソーは判決で死刑を宣告される。ムルソーは狂人であると宣告されたと同様である。
  ムルソーの場合は仕方がないかもしれない。けれども、故人の為という暗示を自分たちに掛けながら社会慣習に反したことを罵倒する行為が、自分たちの社会的体裁の保身ではなく故人の為になるという勘違いは愚かで卑しく映る。
  葬式は故人の為でも何でもなく、故人の周囲の自己満足でしかない。それは死者への永遠の愛もおなじだ。永遠の愛をするのは構わないが、それを誰それの為と信じて実行するのは滑稽だ。自身の為及び周囲の環境の為にそれは行われる。

  私は儀礼や儀式・セレモニーなどに参加することが大嫌いだ。民俗学的にそれらを研究することは学問的好奇心を奮い立たせるので、とても面白いのだが、私自身がとなると、現代の自己満足に溢れるあの会場へ足を運ぶのは億劫で仕方がなく、それでも社会的義務感とヒューマニズム・個人的使命感との葛藤を強いられるのにやはり腹が立つ。私が死ぬことでいやなのは、葬式に出席せねばならないことだ。私というこの屍・肉塊が誰彼の自己満足の道具に使われるのに腹が立つ。それを必ず欠席できる通達が来ることがあれば、私は何時でも死に臨むつもりでいる。この屍は即刻燃やしてしまい処理してくれ。葬式を挙げないでくれ。

死の床に横たわりて (講談社文芸文庫)

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