sibafutukuri

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ヴァーダマンの母はさかな

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・ 私が死にながら横たわるので

  フォークナーの主に長編作品は、二度以上読まなければならない。初回に読んでいる時にすでに、放棄したくなるほど訳が分からない場合もあり、読み終えて意味不明のこともあるのだが、もう一度読まなければならないと思ってしまうから二度以上読まなければならない。

  『死の床に横たわりて』(As I Lay Dying、1930年)の本編が終わった瞬間、私は映画の『シックス・センス』を観終わったような感覚に陥った。正確な解釈(とは何だ)ではないだろうが、私はそうその時解釈した。そして、訳者である阪田勝三氏の「訳者解説」を読み始めてすぐ、感動とよばれているようなものが身体から湧いてくるのを感じた。
  本作品では狂人であり、比喩的に詩人でもある、ダール・バンドレン(28歳)が五十九個に断片化された意識の内、十九個の意識をつとめ、それは全体の三分の一に当たる。つまり、この小説の三分の一は狂人(詩人)によって語られている。しかし、作中で彼を狂人呼ばわりしているのは、真夏のなか死体をジェファーソンへ十日ばかり掛けて運ぼうとする人たちなのだ。
  フォークナーの作品は、どうしても暗さが拭い去れないと感じる。本作品も明部よりも暗部が明らかに多いだろう。しかし、母と子の間、子と子の間の複雑な心情を知ると「温かく、優しく、愛情深い」ものが見えてくる。

  以上は、ほぼすべて阪田氏の解説によるものであり、私はそのすべてを受け入れてしまうほどにただ本編を読んだだけでは何も思わなかったと言っていいだろう。だから、もう一度読まなければならない。二度以上読まなければならない。
  本編を終えてから解説を読まなければとか、本編を終えてから熟考しなければとか、そういった条件付きでしか楽しめないという趣向は『崖の上のポニョ』に近いのではないだろうか。私にとっては、この二つは二度以上読まなければならないものである。

・ アディー・バンドレンとリサ

  ダールは、母親を「おふくろ」とは呼ばずに「アディー・バンドレン」と呼ぶ。ダールは母親を名前で呼ぶ。阪田氏によると、「欧米では日本とちがい子供が両親を名前で呼ぶことはきわめて普通のことである」らしいのだが。
  『崖の上のポニョ』でリサの子供の宗介(5歳)は、母親のリサを「リサ」と呼び、父親の耕一を「耕一」と呼ぶ。これは日本語版でのことである。北米版ではそれぞれを、‘Mum’と‘Dad’と呼んでいるという情報を何度か(不確かながら)見た。フォークナーがダールに「アディー・バンドレン」と言わせている理由と、宮崎駿が宗介に「リサ」と言わせている理由は近いように思える。
  しかし、ここもあそこ(『ポニョ』の世界)も日本であるということなどを含む他のいくつもの理由から、宮崎駿が宗介に「リサ」と言わせているのは全く納得できないというのは、2008年の夏から変わらない。簡単に言えば、「リサ」という呼び方は安易である。そして、絵で表現することからの逃げである。

死の床に横たわりて (講談社文芸文庫)

死の床に横たわりて (講談社文芸文庫)

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