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「気づくとは、考えることが終わった世界」

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青空としてのわたし

青空としてのわたし


  お坊さんの山下良道さんの『青空としてのわたし』という本を読んでいる。
  山下さんは兄弟弟子の藤田一照さんとの共著で2013年に『アップデートする仏教という本を出している。こちらはこれからの仏教を説いたものだった。『青空としてのわたし』もそういった役割が大きいが、それに加えてタイトルや装丁、中身からは自己啓発書の趣が伝わってくる。実際、仏教にも瞑想にもあまり興味がない人にも読み易い仏教書になっているとおもう。
  前著の『アップデートする仏教』がぼくにとって衝撃だったので、こちらも読んでいる。『青空としてのわたし』を寝起きでぼーっと読んでいたら、「波と水」と題された節でとてもカッコいいフレーズが出てきたので驚き、引用してみたくなった。

  波には高い低いがあります。……しかし観方を変えて、水として観たら、もう高いも低いもありません。生まれることも死ぬこともありません。
  ……波ではなく水なんだ、と観方を変えたときに、今はとても無理だけど遠い遠い将来にあるだろうと期待し求めてきたものが、じつはすべてここにあるということがわかります。

  では、そのことをどうやって本当に納得できるかと言えば、「気づく」ということの本質を理解することによってです。気づくとは、考えることが終わった世界です。

  ……気づくとは、考えが落ちるということなのです。そして、考えるというのは概念の世界だから、考えが終わったときに我々は概念の世界を出て、つまり波の世界を出て、もともと我々は水だと認識する世界に戻っていくのです。


(『青空としてのわたし』、p.146-147)



  「気づくとは、考えることが終わった世界です」。


  意味、内容よりもともかくこの一節が凄い、と思った。そしてしっかりと前後を読んで意味を考えて改めて自分に滲み込んでいくものを感じる。
  波と観るから優越感、劣等感を感じ、競争しようとする。しかし波も水であり、波が水だと考えれば穏やかになるのだと気づく、ということ。概念の行為である考えるが終了したとき、概念の時空から離脱しすなわち気づくことで、我々が立ち戻るべき現実の世界へと戻る。
  自分が「水」だと認識し、主体と客体を分けない、一体と認識することが瞑想をする上で大切、だそうだ。




  『ジョジョの奇妙な冒険』第七部「スティール・ボール・ラン」で、なんでも言葉に「世界」を付ける「マイク・О」という変なキャラがいたし、数日前に観たリドリー・スコット監督の『悪の法則』でもマフィアらしきオヤジが、禅問答みたいな語り口でやたらと「世界」という言葉を使っていた。個人的な印象でしかないが、山下さんの引用した部分の言葉が、これらと繋がっているものと感じ、それによる衝撃が加わっていたのだ。


  「世界」を無駄にやたらと言葉に加えるのって流行っているのか?この付け足された「世界」によって、その発言は安っぽくもなる。「セカイ系」という言葉、ジャンルを思い出す。しかし、この「世界」によって発言された言葉は主体と客体を離れ、一つ俯瞰した次元へと上がるように思える。良くも悪くもだ。対象も言葉の意味も、抽象的にそして敷衍されることになる。言葉が「世界」によって世界へと浮遊するのだ。


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