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「信じれる」

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「でも信じれるものも少ない」
高橋優


  「信じれる」ってのはほんとうに馬鹿なんじゃないのか。聞いていて気持ち悪いし、頭が悪そうに思えて仕方がない。どんなにカッコいいことを言っていて、どんなに素晴らしいシチュエーションでも「信じれる」で興ざめの台無しに成り得る。


  「信じれる」は日本語の乱れの一つである「ら抜き言葉」であるわけだ。わざわざ「ら抜き」にメタ的に文句をつけるのもなんだか恥ずかしいのだけれども、これは聞くに堪えない汚い言葉だから仕方なくだ。言葉の乱れといっても、その不快な度合いは話しことばか書きことばかで大きく左右されて、話しことばではら抜きも自然なことが多い。例えば「見れる」「食べれる」「来れる」なんてのがそうだ。特に「来れる」を話しことばでわざわざ「今日の飲み、高橋来られるって?」なんて言うのは、たった一文字(一音節)のちがいではあるけれども、なんだか回りくどいような自然らしさよりもわざとらしさを感じてしまう。それが「正しい(正しかった)」にもかかわらず。


  でも、この「信じれる」ってのはどうか?どうにも頭が悪い。音が悪い。美しくなく、汚い日本語だ。「感じれる」なんかも近いものがあるかもしれない。まだまだ2010年11月11日現在の東京では、「信じれる」や「感じれる」は話しことば、書きことばのどちらでも使わないことが頭の良い選択だろう。


  と、こういうことを書いていると、どれが自分にとって自然な言語なのかっていう言語感覚が崩壊していって、「信じれる」を打ち込んだり見過ぎていてこれが当然と思いがちになるのだが。上に書いた頭が悪いとか良いとかというのも、ぼく自身の言語感覚つまり主観であるセンスの問題でしかなく、まったくあてにならない見解なのだけれども。それを承知して、「信じれる」や「感じれる」は聞いていて不快なのでここに敢えて書く。




  とは言うものの、J-POPの歌詞には「信じれる」は意外に多いと体感している。だからこそ今これを書いているのだけれども。街中で若者が「信じれる」を言っているのを聞くことは稀にあるし、2ちゃんねるなどで「信じれる」を書き込んでいるものを見ることはそれよりも少し多いぐらいだ。「信じれる」は年々当たり前になっているのだろうが、どんなに腐っていても一応「音楽」であり「芸術作品」であるにもかかわらず、J-POPの歌詞では「信じれる」を平然と歌っている。まぁ好きにすればいいし、それでも構わないのだが。自分の書いた歌詞に自信を持っているのならば、「信じられる」くらい書いてほしいものだ。歌の場合はとくに、リズムの問題もあるのだろうけれども、それでも「信じれる」は犯してはならない罪だ。穢れだ。


  高橋優というシンガーソングライターの「ほんとのきもち」(「ほんとうのきもち」ではダメだったのか?)という曲を、仕事中に耳にしてそんなようなことを考えてしまうのだった。その中の歌詞に「信じれる」があり、「信じれる」は彼によって立派に歌われている。冒頭に引用した「でも信じれるものも少ない」がそうだ(YouTubeの動画では2:08ころ)。


  この曲が音楽として良いとは全く以って思わない。良い歌だとは思う。極論として言えば歌は音楽ではない。だからこれが歌として良くても音楽として良いことにはならない。というか、音楽が歌である必要があるのかが疑問だ。音楽が歌である、とももちろん言ってはいけないだろう。それはとても狭く、トイレットロールの芯みたいな狭さだ。ある意味で音楽には歌があって当たり前だ、例えばJ-POPがそうだろう。それに対して、オペラのようなものでなければクラシックには歌はないし、ほかにも歌のない音楽はたくさんある。だとすると、「音楽は歌である」と言ったとすれば、「音楽は歌ではない」と言ってもおかしくない。なんでこんなへんちくりんなことを書いているかというと、音であるそれをわざわざ「歌」として他と区別する意味があるのか、という疑問が常にあるからなのだろう。音響主義的立場からすれば、その意味はまったくもってない。いや、べつに歌っていてもかまわない。それが音源に入っていても構わないのだが、それを指して「歌」というのに意味はなく抵抗があるし、それを聴いて「歌」として認識して聴くことになんの意味があるのだろうか、というのが音響主義者による疑問である。そんなことから、「ほんとのきもち」は歌としては良いのだが、これは音楽ではないから音楽として良いとは思わない。


  本題からズレまくってしまって、こんなことはこの文章の中でどうでもいいのだ。まぁ、「信じれる」なんてへなちくな日本語を使って歌うくらいなら、無言で歌っていればいいのじゃないの?ということだろう。つまり、歌わなくていいよと言いたい。うん、ぼくは「信じれる」を使う君を信じられないぜ。




  とはいえ、結構カッコいい感じの歌だし、まだデビューしたばかりだというから頑張ればいいと思うが。音楽としてそこまで悪くは思わないからこそ、ここでの「信じれる」という汚点はもったいなくもある。ここに晒しあげることが高橋優のささやかな宣伝になれば、それはぼくの罪滅ぼしにもなるのかもしれない。


高橋 優「ほんとのきもち」PV


ほんとのきもち

ほんとのきもち