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記憶と記録としての室伏鴻

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  先日、6月に亡くなった舞踏家の室伏鴻さんのお別れの会に行った。若手の踊りといい麿赤児さんのスピーチなど、いろいろな意味で涙の出る会で、参加できてとてもよかった。室伏さんはその奇怪さやスマートさなどが枠外に抜けていてどこか憧れる存在。また生で観たかった。


  知識で言えばかじった程度しかないので何かを述べるのは恐縮なのだが、今日観て改めて思ったのが、暗黒舞踏というのは理解できない気色悪さが大抵の割合を占めているけど、視点や意識を変えて見てみると思いがけないことが表現されている表現形式でもある、ということ。異物に混入した一欠けらのダイアモンドのよう。


  しかしダイアモンドだけでは、直射日光の下でろうそくの火が何の価値もないのとおなじで、異物に覆われているからこそ表現としての暗黒舞踏の意味があるのだとおもう。


  暗黒舞踏という世界は自発的に入り込んだ世界ではなく、両親に連れられて一ケタ歳児の時代から見させられていて大概の記憶は潜在的な記憶としてしか脳内に存在しない。少し前までは毛嫌いしていた世界であり、今は許容できているし興味もあるのだが、入りにくい分野だから自発的ではない。


  だから暗黒舞踏やその演者たちというのはなんとなく自分の中の原風景の一部となっている。そういう状況の中でやはり一番影響を受けているのは音楽面。室伏鴻さんは音楽でBrian Enoの"Music for Airports"をよく使っているし、他の舞台でもノイズ系や環境音楽系が多い。


  暗黒舞踏はダンスでありながらダンスと呼ぶにはあまりにダンスらしくなく、そこで流れる音楽もまた音楽と呼ぶにはあまりに音楽らしくないものが多い。ダンスでありながら静寂の時間も多くケージの音楽を感じさせるし、音楽の中の静寂が音楽として実に効果的でもある。


「室伏鴻さん死去 日本を代表する舞踏家・振付家」(朝日新聞デジタル)


Ko Murobushi butoh performance “Ritournelle” - part II