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「すべての社会のうちでもっとも古い社会は家族であり、これだけが自然なものである。」(ルソー著『社会契約論』)

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すべての社会のうちでもっとも古い社会は家族であり、これだけが自然なものである

子供たちが父親との絆を維持するのは、生存するために父親が必要なだけである
(ルソー著『社会契約論』、第一篇 第二章「最初の社会」)

 

 なんとなく光文社古典新訳文庫のルソーの『社会契約論/ジュネーヴ草稿』(訳:中山元)を電子版で読み始めたけど、読み易く分かり易くてけっこうおもしろい。ホッブスの『リヴァイアサン』も読みたくなる。

 

 

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父親の保護が不要になれば、この自然な絆は解消される

子供たちは父親に服従する義務を解かれ、父親は子供たちを世話する義務を解かれる。

こうして父親も子供たちも独立した存在に戻るのである。

もしそのあとでも親子の絆が保たれるとすれば、それは自然な結びつきによるものではない。

両者が結びつきを望んだためである

だから家族そのものも、合意のもとでしか維持されないのである。

(『社会契約論』、第一篇 第二章「最初の社会」)

 

 「家族」というなんとなく温かみのあるように思える枠組みを冷徹に分析していくルソー。

 納得するしおもしろいんだけど、ちょっと違和感があるのは「母親の不在」だ。

 「親子」という言葉で「父親」と「子供(たち)」を結んでいるけど、そこに「母親」はいない。

 でも、この家族については政治社会のモデルとして、支配者とか国VS国で起こる戦争などの前提としている話だから、「支配者=父親」、「人民(奴隷)=子供」という意味合いの文脈になる。だから母親はここでは出てこない。

 まだ途中までしか読んでいないけど、全体的に現代にもつながる内容と思えるけど、はなから無視されている女性の、支配者になり得ない立場という考え方は、さすがにちょっと古めかしいものなのかもしれない。

 

家族というものはいわば、政治社会の最初のモデルである。

支配者は父の似像であり、人民は子供の似像である。

家族と国家には唯一のちがいがある。

家族においては父親は子供たちにたいする愛情から、子供たちの世話をする。

ところが、国家においては、支配者は人民を愛することはない

ただ命令する快楽から人民を支配することにすぎない。

(『社会契約論』、第一篇 第二章「最初の社会」)

 

 「父親は子供たちにたいする愛情から、子供たちの世話をする」家族というのは理想的な家族であって、そういう家族が多いことも願うばかりだけど、実際のところ親のなかには「命令する快楽から」子供を支配する、あるいはしようとする輩も多そうなもので、ルソーの示した対立図が現実の現代社会で合致するかは微妙なところで、寂しくもある。

 

すべての権力が神に由来するものだという理論は、正しいものだと認めよう。

しかしすべての病もまた神に由来するものなのだ。

神に由来する病にかかったとき、医者を呼んではならぬということになるだろうか。

(『社会契約論』、第一篇 第三章「最強者の権利について」)

 

 「神に由来する病にかかったとき、医者を呼んではならぬということになるだろうか。」というフレーズが単に好き。

 

社会契約から、本質的でない要素をとりのぞくと、次のように表現することができることがわかる。

「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部としてうけとるものである

この結合の行為は、それぞれの契約者に特殊な人格の代わりに、社会的で集団的な一つの団体をただちに作り出す。

 この団体の成員の数は、集会において投票する権利のある人の数と一致する。

この団体は、結合の行為によって、その統一と、共同の自我と、その生命と、その意志をうけとるのである。

『社会契約論』、第一篇 第六章「社会契約について」

 

 ここは「第六章 社会契約について」の「社会契約の条項」の節。ルソー独特の考え方と表現だからこそ難しいし、わかれば面白そう。

 たぶん、ここでこの本で初めて「一般意志」という言葉が使われている。魅力的だけど厄介な専門用語だ。ここには下記の訳注が載っているのでちょっと長いけど引用する。

 

一般意志という概念は、キリスト教の神学においては人間の個別の意志に対する神の普遍的な意志と考えられてきたが、ルソーは『政治経済論』において一般意志の概念を彫琢する。

ルソーは国家を人間の身体の比喩で語りながら、人間にも国家にも一つの「共通の自我」が必要であると指摘する。

人間が自由な意志をもつ個体であるように、国家は「一つの意志をもつ一個の精神的な(モラル)存在でもある」と指摘するのである。

国家のこの意志が、国家の成員の特殊な意志とは異なる一般意志であり、これは市民が社会契約によて社会を成立することで生まれるのである。

(『社会契約論』訳注より)

 

 以上、訳注でした。割と分かり易いかとおもう。「一般意志の概念を彫琢する」っていう表現はややこしい言い回しだけど、つまりキリスト教的な「一般意志」の概念をルソー的な「一般意志」の概念に作り替えた、みたいなところか。

 そもそもが神学の言葉ってことからして問題なんだけど、やっぱ理想的過ぎるというか人民の普遍的な意志の存在も、その意志が性善説みたいに過信してしまっている感じではある。

 たぶんマルクスの用語で「共同幻想」という言葉があるけど、それと同じく理想としては面白いんだけど、実際に政治的な発言とかで実用してしまうのは実害が出てくるんじゃないのかな、と一般意志の場合にも思うところではある。いわゆる「神話」でしかないんじゃないか、とね。

 

 また、この本を読み始めた直近のきっかけである東浩紀さんの『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社文庫)で、ルソーの一般意志について触れている部分も引用する。

 

いまから二世紀半まえ、フランスにルソーという思想家がいた。

彼は「一般意志」と呼ばれる奇妙な概念を提唱し、その主張は後世に大きな影響を与えた。

たとえばフランス革命はその概念の実現だと考えられた。

ところがこの「一般意志」という概念はじつに厄介なもので、影響力が大きいにもかかわらず、専門家のあいだでは長いあいだ肯定的には評価されず、そのため民主主義をめぐる議論もまた混乱してきた。

しかし、その言葉にルソーが込めた思想は、二一世紀のいま、コンピュータとネットワークに覆われた情報社会の視点で読むと、驚くほどすっきりと、シンプルかつクリアに理解できる。

二〇一〇年代の現実を背景にして読むと、そもそも民主主義の起源にあった思想が異なったもののように見えてくる。

東浩紀『一般意志2.0』、「単行本序文」)

 

 

 

 以上のように、東浩紀さんはルソーの一般意志という概念を、インターネットが発達した社会には合うんじゃないかと肯定的に捉えている。

 自分は、この『一般意志2.0』を文庫になってから読んだのでかなり乗り遅れてしまったのだけど、なかなか刺激的でおもしろかった。

 でも、大元となるルソーの思想をぜんぜん知らずなくて、やっと光文社古典新訳文庫の『社会契約論/ジュネーヴ草稿』を手に取った、ということろ。

 『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』もおすすめで、まだ読んでいない人には読んでない人には読んで欲しいし、同じく東浩紀さんの『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎文庫)もおすすめ。

 

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