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『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読みながら考えたこと

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シンギュラリティ:人工知能から超知能へ

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ


■人間とクローンと人工知能

  クローンを作るのは宗教的な倫理観とかで咎められるのは心情として理解できるけど、将来的には人間と同じかそれ以上の知能と成り得る人工知能の開発が咎められないのはなぜなのか。AIは進化すべきと考えているけど、クローンとAIのちがいを考えてみれば頭が混乱してくるし、AIも許されていいものなのかと疑問に思えてくる。

  最近、AIを使った株の高速取り引き(高頻度取引)の「規制を検討する」みたいなニュースを見たけど、人間には財産権というのがあるらしいけど、AIにも財産権を認めるべきなのかと考えると、高頻度取引ではないにしても巧みなトレードで自分が使っているAIが自分より金持ちになるのか、とか考える。


「株の高速取引検証へ審議会 金融庁、実態を調査」(日経新聞)


  マレー・シャナハン『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読んでいると、そういうことを考える。AIの財産権もそうだし、投票権とか。しかし投票権にしてみると、人間には年齢制限があるけどAIの年齢ってなんだよ、とか考える。

  AIに反対している著名人も結構いるとかで、それは分かる。でも、おそらく大抵の人の理由は漠然と社会に悪い影響を与えて人間の利益にならない、みたいなことなのでは。AIに人間が支配される危惧とか。やっぱそれはクローン反対の場合と理由が全然違うようにおもえる。

  AIに支配される人間たち、は想像できるけど、クローンに支配される人間たち、は想像しにくい。クローンたちに支配されちゃうほど人間はマヌケではない、という驕りかもしれない。自分のクローンに自分の権利を侵される、みたいな映画はけっこうある気がするけど、そういう物語は「種」の問題ではない。


■ペンキの刷毛と計算機違い、自分と自分でないものの境目

ペンキの刷毛を使いこなす人が、その刷毛が体の一部のようだというのと同じように、計算機を使う人でその計算機が自分の精神の一部のようだという人はいないだろう。ユーザーには計算機の仕組みは見えず、ただその結果を所与のものとして受けとるだけだ。」

「われわれは、不完全ながらも、自分の頭の中で起こっている論理的思考のプロセスに緊密にアクセスでき、この緊密さこそが内省、そして認識の統合を助けている。」(p.205)

  だんだんと言っていることが難しくなっていき、理解が追い付かないがペンキの刷毛と計算機の違いというのは分かり易くて面白い。中身の違いというか、そもそも計算機の中身は考えるかもしれないけど刷毛の中身は考えない。

  ペンキの刷毛と同じような意味合いではないけど、パソコンや携帯・スマホは自分の一部、もしくはそれ以上に自分でもあるだろう。分身というか、デバイスに記録されたテキストや画像は外部にある自分を自分として侵略しつつある。とは言え、やっぱりペンキの刷毛とは別の文脈だろう。その違い。

  ペンキの刷毛とか野球選手が愛用しているバットとかサッカー選手のサッカーボールとかと、パソコンやスマホは、どっちも自分であると言えるだろうけど、きっとその二種類の意味合いは違う。サッカーボールはネットに繋がらないけど、スマホなどは繋がる。同じモノでも、その違いは大きい。

  パソコンが自分だ、と言っても昨今はなんでもかんでもクラウド化される時代。個人的な体験としては、DJ方式でMIXした音源はファイルで持ってるにしても、曲の情報などのプレイリストを知りたいなるとネット上に上げたものを参照するのが一番手っ取り早かったりする。自分の記憶もツールも当てにならず、ネットの情報にすがることになる。

「sibafu - Mixcloud」

  余談ですが、MixcloudにアンビエントエレクトロニカのDJ MIXをアップしているので、よかったらこれを読みながらでもどうぞ。
  自分だと思っていたパソコンも結局空っぽになり、ネットを参照するヒモでしかなくなってしまうと、自分はどこへ行ったのかと迷子になることになる。結局、クラウド化された社会というのは攻殻機動隊で描かれていたというか予測されていた、シェアされた自分が他者と統合することになる社会。

  ペンキの刷毛と自分は「繋がり」が重要な点なのに対して、計算機と自分とでは「中身」が重要な点となるのではないか。ペンキの刷毛に中身も内容もない。ただ、自分とペンキの刷毛がどう繋がっていくか、それが「自分の延長」という感覚を強めているようにおもえる。

攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス


■「自分」は肉体に宿るのか、ネットに宿るのか

  自分とパソコンは、もはや繋がりとかそんなレベルではなく、自分をパソコンに吸い取られている。自分をパソコンに委任、委譲している。パソコンが自分に被さってきているイメージ。パソコンに食われる自分。だから、パソコンを失った自分は空っぽだと、道に迷うことになる。何も残らない。食いカスな自分。

  最近、電車の中でよく見かける光景。ガタガタ揺れる車内で、両手でスマホをいじるのに夢中でよろよろして倒れかけたりしている女性。ヒールを履いていたりする。バカじゃないかとおもう。というかバカだろ。なんかの修行かなんかか。

  まぁでも、こじつけて考えれば電車内でよろよろしながらスマホをいじる女性の姿は面白い。如何に自分がその体に宿っていないか、ということと自分がスマホに振り回されているという現状を体現しているからだ。

  片手で扱えるスマホってあるのかもしれないけど、もっと普及させてあげなよ、とおもう。

  電車内でイヤホン付けて両手でスマホいじる女、最高にバカな人間像だとおもう。

  自分も人のこと言えないけど、そういう姿を見ていると社会の中とか電車の中でとかいう文脈を付け加えるにしても、自分はどこにあるのかってことを考えさせるシチュエーションなわけだ。


■ポストヒューマンな人工知能と人間の共生

「保守的な人間中心主義とポストヒューマン原理主義とのあいだに妥協点はあるのだろうか?」(p.209) ※ポストヒューマン=人間の後の人間像を示唆する概念。トランスヒューマンとほぼ同義。

トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。 ポストヒューマンの形態として、人間と人工知能共生、意識のアップロード、サイボーグなども考えられる。」(「ポストヒューマン (人類進化) - Wikipedia」)


  江戸時代の人々からすれば、パソコンやスマホを使いこなす現代人も十分ポストヒューマンなんじゃないか。


「(本)ジャック・アタリ「21世紀の歴史」—「ノマド」よりも「トランスヒューマン」に注目 : まだ東京で消耗してるの?」

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

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ニーチェによれば、人間とは、動物と超人とのあいだにある深淵を渡るにすぎない。」(p.207-209)

  すごいこと言うな、ニーチェ。人間=橋。『ツァラトゥストラかく語りき』に書かれているらしい。読んだことないし難しそうだからニーチェの言う「超人」ってよくわからないけど、ポストヒューマンに近いものなのかな。ガンダム世界で言う「ニュータイプ」を思わせるワードでもある。

「この視点の難しいところは、言うまでもなく、ニーチェ的なビジョンがナチス的な狂言と紙一重であることだ。」(p.209)

  初代『ガンダム』のちょっと前の時代にジオン・ズム・ダイクンが提唱したニュータイプ論が、作中の一年戦争時にギレン・ザビ選民思想の主義として利用されている。言うまでもなく、これはナチズムをモデルとしたストーリーだろう。



  つらつらとツイッターでつぶやいたことをまとめました。まだ途中だけど、マレー・シャナハン(ドミニク・チェン監訳)の『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読んでいるといろいろと考えさせられます。内容が難しく集中しづらい部分も多いけど、なぜか個人的には200ページ辺りからすごくするすると頭に入ってきて刺激を受けた。オススメの人工知能本。


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『シンギュラリティ』で監訳を務めたドミニク・チェンさんの著書。こちらも気になる。