sibafutukuri

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眼鏡は私

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眼鏡がなければ生活ができない。
雑誌は特に裸眼ではとても読みにくい。
判型が大きいとどうしても活字が目から遠ざかる。
なので、眼鏡を探す。
眼鏡がまず見当たらない。
見つけてもぼやけた視界で触れると床に落とす。
そういう時、眼鏡がなければ生活できない、と思うのだ。
そう思った時、眼鏡は私ではないか?とも思う。
眼鏡=私。
私=眼鏡。
眼鏡はたいていレンズだけでも本人に合わせて作る。
オーダーメイドに近い物体だ。
眼鏡は私に合わせて作られ、
私は眼鏡に合わせて作られていない分、
まだ私に優位性があると考えられる。
とは言え、私は眼鏡がなければ生活できない。
原初がどうかは別として、
私が眼鏡に合わせて徐々に変態しているのは事実だ。
そこに眼鏡があるから、私は眼鏡になるのだ。
でも、考えてほしい。
私は服なしに生活できるだろうか?
私は貨幣なしに生活できるだろうか?
そう考えた時、どこまでが私で、どれが私で
財布の中の漱石野口英世樋口一葉も諭吉も、
私ではないと言い切れるだろうか。
眼鏡が私であれば財布も漱石も私である。
極論だが、言ってしまえばそうなのだ。
他人というのもそうで、
他人が私でなく私が他人でない、とも言い切りがたい。
コンビニにて、
私が私である漱石を店員に手渡して
コカコーラを買うとする。
店員というのは誰でもできるが、
誰かがやらなければ買い物ができない。
私がやってもいいのだ。
店員は、
お釣りを渡す時にふわりと私の右手を包んでくれる、
その金髪のイケメンでもいいし、私でもいい。
店員が私の眼鏡ほど私に合わせて作られていないから
あまり必要性とワタクシ性を感じさせないだけで、
彼もまた私なのだ。
私だってエゴイストになる時があるだろう。
それでもいつもではないつもりだ。
対して、自然なほど常にエゴイストな人も存在する。
自分が自分で独立しているとでも思っているのだろうか。
私にとっては至極不思議な思考だが、
いるものはいるのだから仕方がない。
そういう人は眼鏡をかけてみればいいとおもう。
逆に言えば、私が生粋のエゴイストにならずにすんでいるのは、
眼鏡をかけはじめたからだろう。




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