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図書館で寝たりした日 - ロラン・バルトと『ユリイカ』など

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  図書館で30分くらい寝た日。


  それ以降頭がぼーっとしていた。


  図書館で、雑誌の『ユリイカ』のロラン・バルト特集を見つけてびっくりした。少し読んだ。


  『ユリイカ 2003年12月臨時増刊号』が、「総特集 ロラン・バルト」ということになっている。
(参考、http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%ED%A5%E9%A5%F3%A1%A6%A5%D0%A5%EB%A5%C8%A1%A1)



  『ユリイカ』のことは名前くらいしか知らなくてしっかりと読んだことはなかった。『ジョジョ』の荒木飛呂彦とミュージシャンの大友良英の特集などをやってるのは知っていて、漫画とかサブカルとかアングラ系のものばかりという偏った認識だった。


  アカデミック(バルトにこの言葉は似合わないけれども)なものも扱うとは全然知らなかった。詩もよく載せるらしい。これからすこし関心を持とうと思う。




  いろんな人が文章を寄せている。論文というほどしっかりしていなくてエッセイや個人的思い出などを綴ったようなものという印象を受けた。ぼくの研究には直接使えそうではなかったが、バルトの人となりを知るには良い資料集だとおもう。また改めて読みたい。



せせらぎのバルト / 蓮實重彦
手のプンクトゥム バルトの 「第三の意味」 について / 吉田喜重
「物語の構造分析序説」 再考 一九六六年東京日仏学院でのセミナーをきっかけに / 桑田光平


  ぼくが読んだのは以上の三つの文章だったと記憶している。


  蓮實重彦(はすみしげひこ)さんの「せせらぎのバルト」はバルトが来日して東京大学で講演したときのことが、蓮實さんが自身のおぼろげな記憶をたどりながら語られていた。これは読んでいて面白かった。ユーモアのある文章というのもあるけれど。講演の内容が記録にしっかりとは残っていないようだけれど、この時話したのは「物語の構造分析」に関わることだということだから興味がある。


  桑田光平さんの「『物語の構造分析序説』 再考 一九六六年東京日仏学院でのセミナーをきっかけに」は割としっかりとして文章で、何度も読んだ「物語の構造分析序説」のことだけれど、良い再確認の機会になった。これを読むためにこの『ユリイカ』を読んだ。




ロラン・バルト―世界の解読

ロラン・バルト―世界の解読


  このバルト特集の『ユリイカ』よりも、やはり今ぼくが読んでおいたほうがよくて読んでおきたいのは篠田浩一郎さんの『ロラン・バルト―世界の解読』だった。


  前回一章分だけ読んで、今日また少し読んだらやっぱり内容がしっかりしていて分厚くて大きい一冊の中にいろいろ参考になるところが多いように思えた。バルトの仕事についてまとめたとても良い本なんではないか、という予感がする。買うかもしれない。もう卒論の締め切りまでにはあまり読む時間がないのだけれど。




  バルトは言語学記号学を用いて、科学的な文学の批評を目指した。しかしバルトは常に留まっていないひとで、科学性への希望を捨てて、のちに快楽の文学へと向かう。バルトについてはそういうようによく説明されていて、一応ぼくもそういう理解をしている。


  ぼくなりの言葉で言うと、バルトは創作的な批評に向かったのだとおもう。『S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析』の(構造分析と言うよりは)テクスト分析は創作的に近付きつつある段階におもえる。バルトは批評から実際に書くことに進む。小説を書く準備はしていたようで、読んではいないけどそういう文章が残っている。


  だが、実際に書く前にバルトは事故で亡くなってしまった。バルトはついに小説を書かなかったあるいは書けなかった。


  このバルトの仕事の移り変わりの流れは面白い。文学を科学的に分析しようとしたがそれをやめ、文学の快楽を強調し始め、結局は自分で小説を書こうとする。この流れはバルトの生い立ちをながめると必然にさえ思える。だが、バルトは書けない小説家だった。だから最初に科学的な方向に向かったのではないか。




  ぼくはバルトに影響されている。しかし、心から科学的な文学の分析などを望んでいるかと自身に問うてみると、それはたぶんそうではない。要請されているからやりたいとおもうだけだ。他人に論証できる形での分析を分析と言うのだろうけれど、それを要請されているからそれをやらなければならない。そういう気持ちが強い。


  ぼくが大学に入った直後から感じて、最近はその思いは敢えて忘れていたけれど、やはり文学を科学ぶって見ようとする態度はあまり好きではない。それは要請されるからやっているだけで、お役所仕事風のわざと仕事を増やしたり仕事を一生懸命しているように見せる「科学ごっこ」のように見えてしまう。開き直って好き嫌いでやっても間違いではないのではないかと、たまに考える。


  文学の科学を全否定する資格も勇気も知識も必要もなにもまったくないけれど、個人の気持ちとしてやはりそこに真価はないと感じるものがある。擬科学的なものに見える。


  それでも科学的な文学の研究をやめる必要はないし、今はぼくもなるべくそれに近くやらなければならない。でも、なんでこれをやってるんだといつも疑問に思いながらやるんだろう。


  科学的な文学の研究にも価値があり、そうでない文学の研究にも価値があるのだろうが、科学的であることが条件であってそうでなければ排除されるような思想傾向があり、思想に囲まれ思想である自己として思想傾向に恐怖する。





  最近は卒論に関する副次的知識としてレトリック(修辞学)の本をよく読んでいるが、なんだかハマってきたかもしれない。今は佐藤信夫さんの『レトリック感覚―ことばは新しい視点をひらく―』を読んでいるけれど面白い。


  この中に、ちょっと前に紹介していただいた外山滋比古さんの『異本論』のごく一部が引用されていて嬉しかった。やはり「誤読の美学」という、ぼくの個人的な理想に関連がありそうな気がした。読みたい。






  一日の出来事と、日々の疑問と、人生の仮課題とが重なることがあったので今日はババッと雑にだけれど頭と手を急かして書いた。こういう急いだ文章は後々見返したくない。


  読んでいただいている方には科学的とか非科学的とか、定義がなくてひどくわかりにくいだろうから申し訳ない。自分でもこれを説明するのがかなり難しい。とにかく、書き、考え、記録した。それをしておきたかった。


S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析

S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析