寝られない。なぜだか眠れず、昨日見た夢を思い出しながら暗闇の天井をじっと見つめる。エアコンのランプだけが黄緑色に光っている。いつものことだ。ちょっとむかしに書いた「新宿徒歩記」という短い日記のような文章を思い出す。それで、よく行く新宿東口の街並みが頭に浮かぶ。
つぎにひまな時期が来たら、デジカメでも買って新宿の街を撮影しながら一日歩きたい。それを資料として「新宿徒歩記」の書き直しと続きである新宿西口のことも書けたらいいな。出来たらいいんだな。
『ライ麦』(『ライ麦畑でつかまえて』、J.D.サリンジャー著)を思い出す。あれは高校生くらいの青年がフラフラとニューヨークの街を放浪したりして、過去を回想したりするような小説だったっけか。あんなふうに書けたらぼくは嬉しい。あんな「くそったれ」とか「インチキ」とかなんてぶーたれている文学チックではない野崎孝訳の文体で書けたら、もっといいんだ。村上春樹は嫌いだけれども、『ライ麦』の村上訳は読んでみたい。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。
新宿の街を取材しながら歩けたら面白そうなんだよな。ホームレスの臭そうなおじさんと仲良くなったりして、写真を撮らせてくれるかな、なんて思うんだ。
201011280532
「新宿徒歩記」
地下鉄線の駅から、空が見えてくるまで階段を昇る。新宿三丁目でちょっとした用事があったから、ほとんど未知の土地でありながらもそこに赴いた。世間では梅雨が明けたとされていた頃、その日は雨は降っておらず空は確かに晴々としていた。しかし、携帯電話を開くと目に入る天気予報によると「晴れ後雨」であったから、背中に下げた鞄には、間接が所々折れて極めて使いにくい黒の折り畳み傘を忍ばせておく。
用事は然程時間が掛からずに終えた。五時を目掛け目的地を目指していたが、用事が終わった頃がちょうどその時であった。
新宿三丁目というのは、つまり新宿駅東口の方面であり、位置的にはそういうことになる。そこで、今家に直接帰ったところで夕飯までには時間があるし中途半端だと思った。そして、あるレコード屋を思い出した。最後にそこへ行ったのは、おそらく二年程前であった。新宿駅周辺には、地図で見る限り夥しい数のレコード屋が存在する。西武新宿線駅のある西の方にもたくさんあるのだが、行ったことのあるのは東口の店ばかりであった。とりあえず、最も記憶に残っている、名前が有名なレコード屋を探そうと思った。その店というのが、本館を合わせて全部で九館がその一帯に密生していて、それが更に、頭の中の記憶の糸を錯綜させた。
ひとまず北と南を通る大通りから、新宿駅に向かって伸びる大通りに入った。今立っている交差点以東にはさすがに無いだろうと、勘に頼り西へと向かう。
頼れるものは勘、要するに記憶の地図しかなかった。実を言うと、店が見つからなくともその結果は重大なことではなかった。まず、財布には一万円札も無くレコードに費やしても構わない金など入っていなかった。それでも確かに店を探し、街を歩いた。
西へと体を傾けたときに見えたものがあった。近くはなく、遠くに。あそこらにある建物は、伊勢丹や丸井のビルがまず目に付く。傾けた体の先には、ビルとビル、建物と建物の隙間には、あたかも地平線がありその空というよりも、建造物と対等の高さに、光る太陽が作りだす淡くぼんやりと無形の風景が、薄青い空の下のそこにはあった。それでも、会社帰りか外回りのスーツを着込んだ人々、目つきや姿勢が悪くだらしなく見える若者、不健康そうな趣味を持っていそうな少女たちが、あたかも今エデのンに降り立ったかのようにはしゃいでいたり、少なくとも今の立ち位置はそこにあり、不愉快な街の一員であり、これがその街には当然であると、そういった情景の中、その光は確かにあった。
そして、意思の内にはとりあえず歩いてみようというものが朧げながらも生まれていた。群衆に溶け込み共に進み、交差点にて思うままに道を選び、ビルの隙間を抜け、道に従い歩いて行くうちに気づけば道は南を向いていて、これはどこへ行くのだろうと疑問に思う。南に向かうにしたがって人数は減り、どことなく心もとなくなり道を変える。
南に向かっていた道の右側に生えている横断歩道のすぐ目の前には、高島屋の巨大なビルが聳え立つ。その横断歩道を渡ったが、真正面に立つそのビルはあまりにも許容量の範囲を超えていて、距離が近すぎて視界の範囲を大きく漏れ、とにかく心のどこかで畏怖の念を覚えていた。
再び北への道に着き、北進し、今度は細々としたビルが立ち並ぶ繁華街の雑踏へと踏み込む。と、ここまで歩きつつも眼は時折ビルの看板を見るために上へ向き、また歩いている傍に店の看板があるやも知れぬと思いつつそちらを見渡すこともあった。が、一向にそれらしきものは見つからず、目的はぼやけ、肉体からか精神からかの疲れが、頭をぼんやりとさせ始めていた。
雑踏の中を進んで行くうちに、新宿駅はもう目の前であった。気づけばそこは某人気番組のスタジオの前であり、異臭を放ち、腐乱した様な脳みそを持っていそうな若者たちを含め、人々で賑わっていることが頷けた。そこでは多くの若者が何かを期待し、その目には夜へと向かう街とともに浸る覚悟のような、支度かそれが通過儀礼かのように身構え、群がっていた。そして、そういった彼らを含み、人々に、アクションゲームによくある左右からか目前からか襲い来る罠のように、居酒屋などの店員がメニューを引っ提げて通行の妨げ、もはや侵害を仕事として遂行する。
複雑に交錯した交差点を渡り、線路を超えるためのトンネルをくぐる。脇には底の浅い水路があり、そこには暗く輝く少量の液体が流れるとも止まるともせずにある。トンネルの左右に取り付けられたカバーが変色したライトは始めから終りまで照らし続け、その先にある右に折れ、地上へと上がる緩やかな坂を昇ることで役目を終える。そのトンネル内には、ずっと前からの今までも、そしてこれからも、そこに居続けるのだろうと思わせる小汚い中年男性が敷物の上に座り、気だるそうに古雑誌を整理していた。その坂を昇る間に、トンネルの上を電車が大仰な音をたて振動を起こしながら通過していった。
200908110550
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