sibafutukuri

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ぼやける視界

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尊敬されたいとか、尊敬しているとかよりも、尊敬したい。
尊敬をしていたい、ということ。
その人を尊敬していたい。
自分の中でその人を大切にしていたいとおもう。
それは勝手な気持ちで自分に嘘を付くことでもある。
それに、その人の本当を見ないことになるかもしれない。
だから失礼ではあるのだろう。
結局、尊敬の眼鏡を通して見ていると、お互いの間には尊敬の壁ができてしまう。
その尊敬は子供だ。
言葉で言うのは簡単だ。
だが、ガキのツラをしていて恥ずかしくないのか。
大人であれば良きところも悪しきところも、敬えということか。
でも、未だわたくしは人のすべてを許せないから。
自分に嘘をついて、見たくないところを見ないようにしがちなのだ。
でもやはり、それは失礼なことだろう。
敬うことができれば、本当にその人を愛せるように思える。
自分の中で、その人がとても高い位置に居ることになる。
そこに居てもらうためには、尊敬の眼鏡を掛けたままでいるしかない。
完璧なひとなんているわけないのだが。
にもかかわらず、それを求めるようになる病気を患っているように思える。
いや、本当に相手を求めているかどうかも怪しいものだ。
理想を高く位置して、それにわざと届かないようにしているとか。
だから、尊敬に値しないひとは、必要ではないと思いこむ。
そういうストラテジーを心で働かせているのかもしれない。
肉体としては必要ではあるかもしれないが。
本心として、必要ではなく必要である。
社会とか環境の要請なんじゃないか。
よく知っているがまったく知らない人から、押し売りをされている気がする。
わたくしにはもう要りません。
そう言い切れたら良いのだが。
実際、必ずしもそうではない。
どこかで自分に、社会に嘘をついて、見栄を張って。
結局、恐いという理由から逃げているだけだ。
めんどうくさい?
嘘だ。
恐いだけだ。
わたくしには彫像しかもうおもえないのかもしれない。
でも、それでも。
彼女は美しいと思わないか?
そうだ。
おれは彼女を美しいと思っていたい。
一歩先は、崖か、晴れ渡った山頂へ続く山道か。
その一歩に怯えているのだろう?
でんでんむしだ。