sibafutukuri

ゲームの攻略情報・感想、音響系音楽、文学、アニメ、映画などについて書こうかなとおもっています。

あいだ

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  nuuroを流していると、体が邪魔になる。nuuroが流れるとゴーストがその殻から解放されるように、体の細胞はひとつひとつの細胞に分裂しアメーバのようになって下水道でもどこでもいいから流れていきたいとおもう。
  しかしながら、同時に、体を動かしている時には殊に、体の制約からくるひとの活動の限界を実感させられる。地球が抱く偉大なるグラウンドに、足を刺しながらにしか生きられないと諭される。

  シャア・アズナブルは、地球から離れたから地球にアクシズを落とそうとした。地球というゆりかごに揺らされつづけそれを蝕んでいくのも、確かに低俗だ。けれども、偉大なるグラウンドを抱く地球を人力が汚すのも低俗だろう。
  精神と身体を二分化する考えは、稚拙ながらもわれわれは安易にそこに収まりがちである。"Ghost In The Shell"における下部構造から上部構造への「解脱」的ななにかも、そういう稚拙な心身二元論的思想だと私は思うから、あれを科学とも哲学とも見ていなくむしろあれは文学であり、故にSF(Science Fiction)なのである。

  私がnuuroが流れるように流れたいと感受するのは、そういった稚拙な心身二元論的思想に根ざしている言えるかもしれない。その感受は、哲学ではなく文学に因るものであり、詩でしかない。詩はある意味で宗教だ。

  偉大なるグラウンドから離れては生きていけないように、私という私の身体と精神だけでなくその外の環境も含めて私であり(あるいは、体と環境の間に私が在る)、その二つの分離自体が私という「個」(この「個」という区切り方もどこか落ち着かない)の消失に繋がるのだとすればそれは私の死を意味するのではないだろうか。