目次
- 目次
- ハンドスピナーのADHDへの効果は疑わしい
- ADHDの気(け)がある
- なにかをしていなければ気がすまない、という気分
- なぜ落ち着かないのか
- てなぐさみ
- ただ回転するハンドスピナーで落ち着く
- 金属のこすれ合う音が心地良い
- ハンドスピナーでなぜ気分が落ち着くのか
- ハンドスピナーに意味はない
- なにもしないことの重要さ
- ハンドスピナーでのてなぐさみはクセのようなもの
- ハンドスピナーは自分自身になる
- ハンドスピナーの面白さ、奇妙さ
- ハンドスピナーは自分の分身になる
- 人間の精神はウェブに持っていかれている
- ハンドスピナーが精神をウェブから「その場」に取り戻す
- トーテム
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前回はハンドスピナーの歴史や、流行した後の現状などを紹介した。
今回は、ハンドスピナーを回しているとなぜ落ち着くのか、あるいはなぜ集中できるのか、ということの心理作用について実際の体感を踏まえて考えていきたい。
ハンドスピナーのADHDへの効果は疑わしい
?
Amazon.jpで販売されているハンドスピナーにも「ADHDに効果的です」というような宣伝文句が書かれていることがあるが、前回書いたように科学的根拠はない。
そもそもADHD(注意欠陥・多動性障害)とは何かというと、下記の通り。
ADHD(注意欠陥・多動性障害)は英語でAttention Deficit Hyperactivity Disorderの略で、不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(考えずに行動してしまう)の3つの症状がみられる発達障害のことです。
ADHD(注意欠陥・多動性障害)とは?症状の分類と年齢ごとの具体的な特徴 、診断方法まとめ | LITALICO(りたりこ)発達ナビ
・不注意
・多動性
・衝動性
の三つがADHDの具体的な症状。
ADHDの気(け)がある
不注意、多動性、衝動性の三つを自分に当てはめてみると、結構該当するひとがいるのかもしれない。
自分自身は重度ではないと自分では思っているけど、集中力のなさ、じっとしているのが苦手、という自覚が多少ある。
とは言っても主に自宅の中での話しではあるけど。
具体的には、家で映画やドラマ、アニメを見ているときが一番顕著で、「見ること」だけに集中することが苦手になった。
子供の頃はそうでもなかったはずだが、大人になるにつれてテレビやパソコンの前でじっと見つめていることが耐えがたくなっていった。
(なぜか気づいたらこれを書きながら爪きりで爪を切っていたり……)
家の外では我慢が効いているものの、やはり家の中だと集中力が散漫していく傾向がある。
なにかをしていなければ気がすまない、という気分
例えば映画を見ているときでも、スマートフォンをいじったりハンドグリップで筋トレをしているようなことが多い。
あるいは、非アクション系のゲームをしながらアニメを見る、ということも多々ある。
時間を有効に使わなければとか、余裕があるのなら何かを生産しなければ、という切迫感があるのかもしれない。
なぜ落ち着かないのか
?
対象を自分だけから現代人という広いところに移すと、現代以前と比べて力が有り余っている、というのは一つの要因ではないかとおもう。
近代までなら畑で農作業をしたり、車や電車もないので長時間歩いて移動したり、重いものを自分で運んだりと、実際に身体を使って運動することが多かった。
一方、現代になるとそういった運動は減る一方だ。
パソコンや伝票を長時間眺めたり整理して、頭や目は疲労するけれど、その他の部分は元気なままになる。
ひとつの身体ではひとつのことにしか集中できないはずが、首から下の部分の力は余っているから余分に何かをしたくなる。
てなぐさみ
「てなぐさみ」という言葉が昔からある。
漢字で書けば「手慰み」で、あまり立派ではなくどちらかと言えば恥ずかしい一面のある行為だ。
1 手先で物をもてあそぶこと。てすさび。「手慰みに書を習う」
「ハンカチをてなぐさみにする」とも言うし、電話中に紙切れにペンで落書きをしてしまうのもてなぐさみだろう。
ハンドスピナーの役割の一つがてなぐさみや手持ち無沙汰を解消することにある。
ただ回転するハンドスピナーで落ち着く
ハンドスピナーはただ回転するだけだ。
でも、中心にはめられているボールベアリングのおかげで、少しの力を入れただけでも長時間回り続ける。
長いものでは4分以上、回転し続ける。
レコードプレイヤー上のレコードや、回り続ける扇風機を見ているだけでぼーっとしてしまうことがあるのと似ていて、回転を見続けるとなぜか落ち着くことがある。
金属のこすれ合う音が心地良い
また、金属製のハンドスピナーの場合、シャリシャリとした金属がこすれ合う音もなかなか心地良い。
回転によって出る高音は、人によっては不快に思うこともあるかもしれない。
場合によっては、他人の回しているハンドスピナーだと不快になることもありそうだ。
回転の速度で音が変わったり、耳に近づけてみると空気を切る音も聞こえたり、角度を変えることや振動を加えることで音が変わる。
元々、自分はアンビエントなどの音響系音楽が好きなこともあって、こういった環境音に近い音が好みというのもありそうだ。
ハンドスピナーでなぜ気分が落ち着くのか
・てなぐさみになる
・回転に見入ってしまう
・金属音が心地良い
ハンドスピナーでなぜ落ち着くのか、と言えば以上の三つの理由で十分だろう。
他にもあるかもしれないけど、ともかく簡単に言えばハンドスピナーには上の三つの理由で精神的に落ち着く効果がある。
ハンドスピナーに意味はない
ハンドスピナーでのてなぐさみでイメージ上で一番近いのが、「ペン回し」かもしれない。
回転させること、意味がないこと、手軽なこと、以上の三点が似ている。
ペンと違ってハンドスピナーの異様なのは、ペンは書けるという利点があるけど、ハンドスピナーには他に利点がないこと。
つまり、てなぐさみ意外になんの意味もない。
今ではテクニックを駆使したトリック技で遊ぶという遊び方もあるけど、それは後付けのようなものに思える。
しかし意味がないことが悪いわけではなく、むしろ意味がないことに意味がある、という利点。
なにもしないことの重要さ
とかく現代人は、なにかをしなければいけない、という脅迫観念に常に追われている。
そんな暮らしのなかで、実は「なにもしないこと」が重要なんじゃないかとおもう。
とは言っても、生きているとか息をするとかは除いて、ただぼーっとするとか、ただ「なにもしないをする」というのは難しい。
常人じゃなかなか成し得ない領域かもしれない。
そこで、何の意味もないハンドスピナーの登場だ。
ハンドスピナーを回すことに何の意味もない。
あるとすれば自分を落ち着かせることくらい。
時間が貴重だと感じるからこそ、「なにもしないこと」の贅沢さを味わうことも貴重なのではないか、とおもう。
ハンドスピナーでのてなぐさみはクセのようなもの
?
ペン回しも、他人から見れば良い気分はしないかもしれない。
ちょっと悪く言えばナルシズムな行為だ。
自分の世界に入っている、とも言える。
鼻くそをほじったり、顔をボリボリかいたり、頭をかいたり、ボールペンをカチカチならしたり、爪を噛んだり、独り言を言ったり。
ハンドスピナーのてなぐさみは、実はそういった悪癖に近い。
タバコをくわえて吸っているのが幼児退行的で未熟な行為に見えるようなもので。
だから、オフィスや学校でハンドスピナーを回すのはよくない。
金属製の場合回転の音がけっこううるさいというのもあって。
食事中にひとの前でスマートフォンをいじるのがマナー違反なように、食事中にハンドスピナーをいじっていたとすれば嫌な顔をされるだろう。
ハンドスピナーは自分自身になる
上の悪癖の例で言えば、鼻くそや顔を掻いてはがれた皮膚や噛んで千切れた爪、というのはすこし前までは自分だった物体だ。
自分の一部でてなぐさみをしてみるけど、鼻くそや爪は長くは持たないので、すぐ後に「自分であった物体」になり、その直後にはゴミになる。
ハンドスピナーも手に馴染んでくると自分の一部みたいに思えてくる、というのが実感としてある。
自分の手の中で、電気ではく自分の力を加えて回転する物体。
しかも何分間も回り続ける、生命を持ったような錯覚を抱く。
ハンドスピナーの面白さ、奇妙さ
鼻くそや爪は長くは持たないけど、金属製のハンドスピナーの耐久性はそれらに比べれば計り知れないほど高い。
何分も回り続けて、しかも何度でも回せる。
手の中でも回るし、自分の手を離れて机の上で回っていることもある。
机の上で回転させておいて、キッチンへ行きコーヒーを入れて戻ってくると回転させてことを忘れていることさえある。
でも、しっかりと机の上でハンドスピナーは回転しつづけている。
実に奇妙な気分になる瞬間だ。
まるで、自分の代わりになにか役目を果たして運動していたかのような存在になる。
ハンドスピナーは自分の分身になる
自分という存在は、皮膚や内臓、分子と細かく分解していくと、結局どれが自分という存在なのかわからなくなる。
そういう観点から言えば、鼻くそや爪も自分自身であって、それらが外部に剥がれ落ちれば自分の分身になる。
でも、鼻くそや爪は自分の外では動かないし生きてもいてくれない。
ハンドスピナーはというと、自分の手を離れても元気に回転し続ける。
なんだこいつは?と、元々自分なんかではないけど、自分が勝手に動いているような変な気分になる。
人間の精神はウェブに持っていかれている
現代人はデスクワークが多い。
デスクの上には大抵、パソコンが乗っかっていてウェブに繋がっている。
われわれ人間はパソコンを眺めて作業するわけだけど、精神はどこにあるのか。
精神はパソコンのモニターを通して、ウェブ上に分散していってしまっている。
肉体は机の前に置いてかれたまま、精神だけがシェアされクラウドに保存されたりして分散していく。
自分がどこにいるのかわかなくなる。
ハンドスピナーが精神をウェブから「その場」に取り戻す
厳密に言うと、現実とウェブはもう分けられない。
現実=「その場」とここではするけど、自分が「その場」にいることをハンドスピナーを回転させることで確認できるような作用がある。
自分自身であり、自分の分身であるハンドスピナーが目の前で回っている。
その回転の運動で肉体的にも精神的にも自分の居場所を再確認できる。
『ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン』で「回転」が重要視されていたけれど、実際にわれわれ現代人にも「回転」が重要なのかもしれない。
トーテム
クリストファー・ノーラン監督によるサスペンス映画『インセプション』。
その『インセプション』の中で、主人公のコブ(レオナルド・ディカプリオ)が現実と夢を見分けるために、「トーテム」と呼ばれるベーゴマのような金属の塊を回すシーンが何度かある。
そのトーテムが回転を終えて止まれば現実であり、トーテムが回転し続ければ夢の中だと判断ができる。
ハンドスピナーの回転が長いとは行っても、「その場」(現実)ではしっかりと回転が止まる。
モニター上ではGIFのループのように無限に回転し続けるハンドスピナーを作れるだろう。
でも、幸いなことに実物のハンドスピナーは止まってくれる。
だから、「ウェブ」と「いま居る場所」、の区別をつけることができる。