昨日、ポケモンGOが配信されて、関係ないけどいま読んでいるグレッグ・イーガンの『ゼンデギ』がたまたま内容が拡張現実的なものだから、SFの身近さというものをより一層感じるようになってくる日でもあった。
ニュースにもなってたけど、駅員さんが「歩きスマホやめよう」の貼り紙を貼っていたのを見かけたな。これも記事で見たけど、環境でなく配信側が改善をしたりして危険を回避すべきだと、「べき論」としては思う。が、環境をバーチャルな方向性で変えていくのがスムーズなのかもとかも思う。
「歩きスマホ」は「歩くこと」も「スマホ」も止められない状況で、「歩くこと」だけをしろと諭しているわけだけど、もはや「スマホ」だけをやっていて世の中が動かないのがおかしいのかもしれない。現実は拡張されるべきなのかもしれない。「スマホ」を現実にしないといけなくなるんだろう、いずれ。
ポケモンは実在しないわけだけど、ポケモンGOによってもはや半現実的な存在になっているのが凄い。河童とかあかなめとか天狗とか、数百年とか語り継がれている存在よりもポケモンが先を越してしまった。しかも見える人が多ければ多いほど彼らの存在性は強まっていくのだから。「そこにいる性」の強さ。
妖怪とポケモンは対比して考えられると思う。見えることで子供の想像性は衰えてしまうんじゃ、とかありきたりな反発論が思い浮かびはするが、すぐに本当にそうか?と疑問におもう。むしろ、見え過ぎるせいで見えないものまで見えてしまうのでは、という行き過ぎも想像できる。その想像力が妖怪を生むのかもしれない。