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sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

岩井秀人さんの「俳優してみませんか講座」を読んで考える演劇人の書く小説

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文學界2015年7月号

文學界2015年7月号


  『文學界』2015年7月号掲載。劇作家・演出家・俳優であるらしい岩井秀人さんの小説「俳優してみませんか講座」を読んでるけど面白い。というか、笑いが止まらず読み進められない箇所に出くわしてしまった。ひきこもり青年の世界と自分への自意識過剰で卑屈な分析が痛快。


  演劇人の書いた小説というのを気づくと何作も読んでいるけど、どれも不思議と共通して演劇っぽさを感じる作風があって不思議だ。戯曲とはまた別に、より小説の形をしたもので。演劇人は、どこか「可笑しい」とおもえる小説を書くようだ。コントに近いシーンもけっこうあったり。


  演劇はふだん見ないが、こうしてなぜか演劇畑の小説を読んでいくとそちらへと気が向いていくものだ。岩井秀人さんは「ハイバイ」という劇団の代表らしく、こう自分に刺激になるものを読んでしまうと演劇も見たくなる。


  「俳優してみませんか講座」のような、社会のアウトサイドにはみ出てしまった青年が社会を恨みがましい視線で見つめ、独白で進んでいく物語という点ではどうしても『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンを思い出してしまう。しかし、この二つを比較したとき、前者はほぼ講座が開かれる会議室が舞台なのに対して、後者は学校を出て街を放浪するなかでいろいろな場所へ主人公が訪れる、という点で対照的だ。


  本人は真面目に、しかも正しいと思って振舞っているつもりでも、相手や社会には通じず、信念と現実が食い違っていく。そういうディスコミュニケーションが、「俳優やってみませんか講座」では笑いとして捉えられるよう演出されている。信念と現実の食い違いが多々起こる人っていうのはアスペルガーとかコミュ障とか、そういう人たちに近いんだろうけど。




  演劇人の小説の決定的な「演劇っぽさ」とは、一つの場面とか少ない場面で小説を作ろうとすること、だろう。映画で言えば『ソウ』みたいなワンシチュエーションスリラーみたいな。全部がそうではないけど、場面転換の少ない小説が多い印象。


  ふつう、小説を書こうとすると一つの場面に絞ろうとなんて考えるはずもなく、奇をてらった方法として考え付くくらいだろう。けど、演劇の場合は舞台という物理的な制約があるので、少数場面での物語創作が身についているんだろうか。


  劇作家の前田司郎さんが書いた小説『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』は地獄へ旅行に行く話だから、いろんな地獄の土地を巡るから数え切れないシーンが出てくるんだけど。それでも演劇っぽさはあったな。そしておもしろかった。


  演劇人の小説は会話が多い、とは言い切れないだろうけど、会話が重要な味になっているのではないか、とはおもう。会話の間とか、現実にありそうな変な会話とか、そういうのに凄く気を遣って書かれているような気がする。


  会話の表面的な軽さ、というのが意識されているように思える。旧来の文学の印象が小難しいことを議論している、というものだとすれば、そこからの強引かつ効果的な逸脱というのが演劇人の書く小説の会話にあるように思える。


  表面的に軽い反面、日常的過ぎる会話を異化させることでその意味について改めて考えさせられる、ということが多いように思える。


  「俳優してみませんか講座」の冒頭に、おそらく主人公に対して発せられたであろうバス運転手の言葉が出てくる。「おい、考えろ」というものだ。誰に対して言ったのか、何を考えるのかも抜け落ちたこの言葉。それについて主人公は不必要に考え込むが、このひと言によってひきこもり青年の自意識過剰さや過剰な繊細さ、社会とのズレなどを冒頭で明確にさせる効果がある。「おい、考えろ」、だけなのに。それだけの表面的には軽い言葉なのに、意識は溢れかえるのだ。




  ちなみに、演劇人の書いた小説で読んだものを思い出せるのは、本谷有希子、前田司郎『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』、木下半太『家族ごっこ』、安部公房




大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇 (幻冬舎文庫)

大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇 (幻冬舎文庫)

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