sibafutukuri

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AM9時の瞬間夢

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  金曜日の朝。いつも家を出る三分前に目が覚めた。焦った。なんとか支度して5分で家を出て、いつもの電車に乗れた。


  その目が覚める寸前まで見えていた夢があった。おそらく寝ている間見ていて、覚めると同時にその夢は終わったのだ。


  死んだ兄に殺される夢だった。夢だが、実際あったできごとに非常に近い夢であった。気が狂って細かい思考も手作業も苦手になった兄の代わりに、パソコンのインターネットの設定をいじっていた。だがぼくだって専門家でもないし、ひとの記憶は曖昧なもので体感的には正しくても他人からしたらなんの根拠もないようなあやふやな指示を出していて、そんなところまで夢のくせに忠実であった。


  そして、気が狂った男は気が触れやすく、なにかしらのきっかけで怒りのスイッチが入ってしまって感情は爆発し、それをぼくは避ける余裕がなくなって、自暴自棄な気分であったのだろう。気狂いは伝染するのだ、と気狂いになりそうになって身をもって知った。相手の怒りを不毛にも受けてやろうという気持ちになってしまい、兄は包丁を持ち出して襲いかかってくる。それまではこっちだって殺してやる、くらいの気概でいたのだが自分も相手も傷つけてはまずいだろう、という冷静な意思が甦り、ぼくは後じさる。


  玄関のドアのところまで我々は向き合ったままで、追いつめられる。幸い不用心ながらもドアには鍵がかかっていず、背中に押され扉が開いていく。そしてぼくの身体は転げ落ちるように内から外へ重力に運ばれ、目の前には包丁の切っ先が銀色をして過ぎ去っていく。もしかしたら前髪くらいはハラりと分断されたかもしれない。が、そんなことを確認しておく余裕もなく、しかし意外と避けるのは余裕だなと思っていたのだった。


  だが、右から切りかかってきた、向こうからすれば左手に握っていた刃物が振り下ろされた直後、どうして気づかなかったのか不思議でならないが、兄の右手にはもう一本の出刃包丁が握られているのに気づく。体勢を立て直してすこし前のめりになった勢いが過ぎ去らないまでのその間に、ちょうどよく脳天の左上あたりにスコンともグサリとも言い切れない、ともかく薪でも鉈で伐り落とそうというくらいの力加減と角度でもって、この意思を持った肉体の思考部品は破壊から消滅へと当然遺書も書く暇すらもなく、遺言も、最後の酒も、晩餐も、セックスも、キスも抱擁も握手も目配せもなにもする暇さえなく、プツンとプレイステーションの電源が落ちたみたいにこの身体もこの意思も、もはやこの、がどういう位置か、意思か、時空もなにもなくなるくらいに寸断された。


  どうして、死ぬと目が覚めるのか。映画のインセプションもそうだったろう。夢のくせに意外と想像力が足りないのだ。意外にも夢でありながら、常識の規範にしたがって世界を作っていて、そこで規範にしたがった生活をしたがるのだろうか。たしかに、規範もなにも時空もなにも枠がなくなってしまえばナメクジを通り越してプランクトンを通り越して海にさえ私というものがなってしまいそうにさえ思えるのだから。だから、死んだ先の夢というのはそうそう見られないのだろう。仮に見られたとしても、それは私というものが海や空や宇宙だから、当然そこに思考はないのだから、仮に見られたとしても記憶としてこの身体とこの意識に刻まれないだけなのだろう。仮に見られたとしてもそうなのだろう。意識に刻まれないのだろう。体験は既に終わっているが、それを誰も認めないとなればそれは起こらなかったことと同じなのかもしれない。一度観たことのある映画だが二度目に始まった時にも、その映画が終わった時にさえ、一度観たことがあるという事実に気づかなかったら、と考えるとそれは奇妙で面白味があるとも思えるが、やはり話の芯のところでそれは恐怖なのだ。しかも、恐怖さえ観た映画を忘れた私にとって体感する感覚としては永久に訪れない恐怖という感覚であり、だから恐怖なのだ。それは恐怖だ。ゾンビにならず、夢から覚めた。


  そして、9時ちょうどに起き、あと3分で家を出なければならないことに恐怖したのであった。