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sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画などについて書こうかなとおもっています。

パンでもないコミュニケーションとかのはなし

雑記
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■おにぎりとパンの食い違い




  おにぎり食ってるつもりなんだけど、パンを食ってるやつからおにぎりって美味いよなと言われるようなことが不思議にも現実にある。こいつなに言ってんだ?と思いながら臆病なのでイエスと言ったりとかパンも美味いよね、と自分はおにぎり食ってんのに言ってたりする。何かが間違ってんだけどわからない。


  なんでパン食ってんのにおにぎりの話をしだすのかが自分には理解できないのだろう。お前パン食ってりゃいいじゃん、っていう気分なんだよ。こっちはおにぎり食ってんだから話しかけるなよ、と思ってしまうな。それとも本当はおにぎり食いたいのか?深層意識とかなのか?ややこしいんだよ。


  「おにぎりを食ってる」っていう意識はふつうなら考えるまでもなく自明のこと。でも不思議にもパン食ってるやつにおにぎりのことを問いかけるられると、一瞬意味不明の状態に陥ってしまい、いま口の中で咀嚼しているものさえわからなくなる。リセットとかゼロの位置に思考が戻る。だからその問いかけはふつうじゃない。


  しかしまぁ、本人がどう思おうと「おにぎりを食っている」と考えながらも実のところパンを食べているかもしれないし、おにぎりでもパンでもどちらでもない得体の知れないものを食べている、という可能性もなくはないでしょう。


  とすると、私は何を食べていると考えているのか、ということと、私は何を食べているのか、のどちらが重要なのかがわからなくなってくる。しかもそこに他者の意識を含めると、彼は何を食べていると私は思っているか、ということと、彼が食べているものは何か、という新たな思考の枠組みが生まれる。非常にややこしい言い方だが、それぞれこの四つの言い方で別々の思考と言えるように思える。


  私はおにぎりを食べているという事実があるとする。が、それは神のみぞ知る、という事実というものだろう。事実とはそういうものだろう。その事実を、以上に記した私と他者が捉える四つないしはそれ以上の思考という捉え方で見なすことになる。だから話がややこしくなるのだろう。事実があっても、それをおにぎりを食べている私自身が考えるにしてもそれが事実と相違ないとは限らないのだし、当然、他者からすればもっとズレた捉え方になる可能性は高まるだろう。


  その上で、私は相手の考えている意図を汲んでそれを踏まえ、それに相応しい応答をしようと考える。その応答の選択が間違っているかもしれないし、それ以前に相手の意図の汲み取りが間違っているかもしれない。結果を見ると正解と不正解の二つしかないが、例えば不正解だと理解できたとしても、それがどこで選択を誤ったかをまた見定めなければ正解への選択肢は導かれない。


  ぐだぐだと書きに書いたが、突き詰めて簡単に言えばコミュニケーションって難しいよね、ということだろうか。こうして難しく考えるから難しいんだろうけど。でも、おにぎり食ってるのにパン食ってるやつにおにぎり美味しいよねと言われる、みたいなのは適当にうなずきつつも納得し切れないものが常に残っているのだからしかたがない。






■おにぎりでもパンでもいいし、ってかどちらでもなくてもいい




  いま書き連ねたおにぎりとパンの話は、いまの自分の中では意味が通っているのだけど他人には意味不明に思えるだろうし、自分さえ、一ヶ月後の自分さえ意味がわかるか妖しい文章だと残念ながら自分で思う。


  しかしまぁ、今の自分は自分をおにぎりだと思ってるかもしれないけど、人間の全身の細胞は一定周期ですべて入れ替わってしまうように、一ヶ月後にはパンである自分になっているかもしれない。だから、一か月前に書いた文章が一ヶ月後にわからないのは当然とも言える。


  自分がおにぎりかパンかどっちなんだ、と迷うことはあるかもしれない。でも、それって自分がそのどちらかだと思い込んでいたり決め付けなきゃいけないと思っているからこそ迷うんだろう。


  自分はおにぎりとパンである必要があるのか?どちらかでしか存在し得ないとしても、どっちでもいいんじゃないか?


  とは言ってもだ、誰だって、こう言っている自分だってそんな簡単に意識の変革はできないだろう。でも、究極に行き詰った時の解決策はそれしかないんじゃないのか。


  おにぎりかパンか、人間かアンドロイドか。そういう区切りを付けないことで、意識の混乱は避けられるのだとおもう。だってどっちでもよくね?と。


  悪く言えば現実逃避とか思考停止だろうが、概念的に見たときの「自己というカタマリ」から一歩引いて見る、あるいは形而下の一段上から見てみる思考と言えばまだ聞こえはいい。いわゆる悟りというのはそういうものかもしれない。



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