sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

攻殻機動隊とか電脳とかロボットとか

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攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス




  攻殻機動隊の新しいアニメをやっていたりする影響で原作を読み返した。『ARISE』という新しいのはたしかまだ第一話しか観ていないが。溜まってから観ようかなと思っている。


  士郎正宗さんによる『攻殻機動隊』第一巻目と、二巻目の後にでた『攻殻機動隊1.5 HUMAN-ERROR PROCESSER』というものの途中まで。『1.5』は半分がマンガで、あと半分はテレビアニメのためのシナリオプロットのようなもの。後半は文章でちゃんと読んでいなかったので、この機会に読んでしまいたい。アニメに近い話もあれば全然違っていたりと新鮮。またアニメを観たくなる。


  突然だけど、人間はどこまでが人間なんだろう。『攻殻機動隊』を読んでいたらそんなことを考えてしまった。「電脳化」というものがちょっと謎なんだけど、ネットで見たところ一応生体部分が残っている頭脳らしい。ナノマシンを脳みそに注入してネットできるようにしているとか。劇中で金属の塊っぽくみえるが、あれはケースなのだろう。


  電脳後の頭脳は一応生体部分もある、と分かってちょっと安心した。だって、身体の90パーセントが機械になっても脳みそが無事なら人間と言えそうでしょ。でも、逆に90パーセントは生身だけど脳みそが機械だったら……。それはサイボーグかなにかでは?と思ってしまう。


  素子はいかにも人間ですっていう風にふるまっているけど、微かに脳みそだけは生物なんだろう。だからかろうじて人間、というところだろうか。彼女は擬体を何度も乗り移るし、遠隔操作したりしているからもう後半になってくるほど謎の存在だけど。


  精神と身体は切り離せない、とぼくは考えているので脳みそが生物でも他が機械だったら変なことになりそうだな、とか思うわけだけど。脳みそ=精神、とはいかないわけで。


  基準としてここ数日考えていた。やはり、心臓は偽物でも脳みそさえあれば自分を自分だと言えるような気がすると。どこからそんな根拠がくるのか、とか他の人はどう考えているか、とか気になるところ。



  今日、6月30日は文學界新人賞の締切日だった。ギリギリ当日の朝に郵便局に持って行った。すこし解放された気分だ。


  これのために書いたものではなくて数年前に書いたものをちょこっと修正しただけのものだが……。その今回応募したのが、ロボットが出てくるお話。SFと言えばSFだ。『文學界』にSFを出すというのは間違っているのだろうけど、ぼくはこれが文学にも成り得ると信じているので出した。半径数メートルを書いただけのテーマも深みもなにもないようなものが「文学」であるならば、時にはSFも文学になるのだと思っている。


  そうやって書いたり直したりしていて、ふと、人間とロボットの境目ってどこだ……と自分を見失うことが何度もあった。そういうこともあり、上に書いたようなことを考えてしまう。


  『攻殻機動隊』の世界では電脳化が一般的なようだけど、今の常識でも個人的な意識としても脳みそをいじられるなんて気味悪くて仕方がない。そんなの耐えられないことだ。自分でも似たような話を書いたわけだが、うーん、やっぱり脳みそは切り札で「最後の自分」とでも言えるだろう。


  アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の特に第一期を観たくなってきた。




  さようなら。


  また来月。

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