2014年3月19日のツイートより。
宮台真司さんの『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の第三章では現代人の現実の捉え方と嫌な現実への対処法が書かれている。対処法として分析されているのは二通りあり、非現実(フィクション)への逃避と現実を変えてしまう、というもので、後者はオウム真理教のやろうとしたことだという。
ぼく自身は、現実から逃げてフィクションへと没入するタイプではある。そこは変わらないが、しかし、現実への対処法としてもう一つの手段があって、それは現実をフィクションに読み替えることだ。自分の中で現実をフィクション化するとも言える。一言で悪く言えば妄想。
妄想と言ってしまうと目の前のピーマンから目を背けるような現実逃避と思いがちだが、現実のフィクションへの読み替えはあながちそうではないかと思いつつある。
映画『マトリックス』の虚構世界の演出として、現実的な風景が蛍光緑の文字へと変化するものがある。あの文字列はプログラム言語を表しているのであり、プログラムを変換することでそのただの文字列が風景になったり生物に見えたりする。
ぼくが頭の中でやっているのはその反対に近い。現実をプログラム言語の文字列としてそれを自分の頭で変換するのだ。そうすればピーマンがメロンになるしそれに手足さへ生えさせることもできる。誤読なのだ。言ってしまえば現実の誤読。
でも、目の前のピーマンが誰しもただ同じピーマンと認識していると考えることが傲慢さによる思い違いだろう。ぼくらが雑草として見過ごすものでも、それには名前がありそれを生活に役立てる人がいてもおかしくない。ぼくらにとってそれは現実の誤読だが、虹の色は七色と決めて生きるのはつまらないだろう。
座禅による瞑想のように現実のフィクション化は決して革命は起こせないが、つまらない現実をすこしでも楽に楽しく死ぬまで過ごす生活術にはなり得るとおもう。
さいきん、ツイッターなどのネット上に書く文章でやたらと「フィクション」という言葉を連発している気がして、なんでかと考えたら以上のような発想に至った次第。
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