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ポール・オースター 『オラクル・ナイト』 - n次世界の氾濫による一次世界への自覚

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オラクル・ナイト

オラクル・ナイト




  ポール・オースター『オラクル・ナイト』。中盤か後半まで退屈でうんざりしていたけれど、それ以降は本当に凄かった。個人的な体験としてだけ、かもしれないが。アトラクションやインスタレーションアートみたいに、一つの身体的な「体験」としての読書がそこにあって、こんな読書もあるんだと驚いた。


  突き詰めれば一般的に言われているフィクションも現実の内なのだと。それは当然で、便宜的に現実とフィクションを分けているにすぎなくて、考えてみればそれは当然なんだけど。


  でも、それを気づく過程が、物語の一次世界から並立されているいくつものフィクション=二次世界を読むことによって物語内の一次世界を現実の一次世界として錯覚してしまう、というそういう一連の体験というのがかつてないもので、嬉しくもあり不気味でもあった。


  『オラクル・ナイト』の作中後半で、小説などでも発した言葉でも、それが発せられたことでその言葉を現実にしてしまう、という意味のことが悲観的に語られている。つまり物語を書くという行為は、フィクションを作っていながら未来に繋がるこの現実を作っている、ということでもあると。いくら拒んでも、発言をすれば未来の生成は免れられない。


  フィクションは現実である、という結論は当たり前のことで面白くもなんともない。でも、『オラクル・ナイト』によるその結論に至らせるまでの読者に与える読書体験というのは類稀なものと言っていいだろう。逆説的に、物語の中へと深く入っていくことで物語の外へと越えて、開かれていくとも言える。


  読者である私の身体が、『オラクル・ナイト』を読むことでどこの世界にも行けるのだ。現実をも含めて、この小説の物語も物語内物語もn次世界と一言で言うことができ、私がどこか一つの世界に留まることは許されない。この潜る行為と超えるというメタ的な行為の同居性を持ったこの小説は、「作品」という概念を懐疑的に広げていくインスタレーションアートの形に近いと思うのだ。


http://twilog.org/sibafu_gokyo/date-140213




  はい、以上がツイッターで連続投稿した感想ををまとめたものです。改めて、付け加えを以下に。




  2月に発売されたばかりの宮台真司さんの『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という総合的な評論の本を読んでいる。その中に、上に書いたオースターの小説によって考えた、現実と虚構の関係性に関連のあるように思える記述があった。


  それは、現代の日本人にとって現実と虚構は同じくらいの価値のものになっている、ということ。かつて現実は至高であり絶対的な概念だったが、オウム真理教や『エヴァンゲリオン』が登場した90年代半ば、そしてセカイ系が流行ったゼロ年代初頭頃、という時代の流れで私たちは現実と虚構を並べて考えるようになった、と宮台さんは書いている。


  そんなこと考えたことなかったが、言われてみればそんな気もする。例えばインターネット。ここは仮想空間だろうが、延長した現実とも言える。そして、ゲームはポリゴンなどの発達した技術でリアリティを増し、映画は3Dによって客席との距離は縮まった。


  なぜ現実と虚構を等価に考えるか、という宮台さんの分析が当たっているかはわからないが、等価に考えている、あるいはそれに近い思考をしていることは事実だろう。でなければ、オースターの小説の物語も物語内物語も現実だとは間違いなく思わないだろうから。


  現代人の思考が現実と虚構の区別をしなくなっていることを踏まえて、『オラクル・ナイト』を考えると、実にこの今の時代に合っている作品であり、成功した試みと思える。


  ひたすら物語内物語を書き続けている印象のあるオースターだが、私はやっと彼のクセのある作法によって書かれた小説に追いつけたような気分だ。あるいは、『オラクル・ナイト』によって彼の執着した演出方法が成功による帰着を迎えた、というとでもあるかもしれない。