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sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

『群像 2013年6月号』を傍らに、すこし文学の話

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群像 2013年 06月号 [雑誌]

群像 2013年 06月号 [雑誌]




■物語との勝負?


  『群像 2013年6月号』に群像新人文学賞が載っていて、今回は自分が応募した賞でもあるのでとりあえず小説受賞作の、波多野陸さんの「鶏が鳴く」だけを読んだ。途中で読むのを諦めたから評価になっていないけどなにもおもしろくない。残念。とりあえずあとで評論二つも読もう。


  選評にて阿部和重さんが「今年はいずれも受賞作なしが妥当と思われるくらい、小説部門も評論部門も低水準だった」と書いている。小説受賞作を読んだ限り、とりあえず、小説は受賞作なしが確かに妥当だったんだろう。


  作中に文学作品が溢れる文学作品というのはメタ的でそして安易で、ついつい自分でも書きがちなのだけれど、読むのもあまり好きではない。勝負をしていない、と思ってしまう。勝負ってなんのこっちゃって感じだけど、文学について語った小説なんて勝負になってないし、していない、って思ってしまう。


  その分、文学作品にしろアニメや映画や漫画にしろ、それについて語っていないような多くの大衆文学はしっかりと勝負をしていて、それが真っ当であり尊敬に値すると思う。勝負ってなんのこっちゃって感じだけど。


  小説についての小説、作品についての作品というので思い出すのは、最近のアニメを批判的に表現した「アニメ好きが作ったアニメ」という言葉だ。それはそれで面白みがあるにしろ、新鮮味は薄い。


  創作は結局模倣であったとしても、創作性と模倣性の比率はあるだろうから、その模倣性が高い「アニメ好きが作ったアニメ」はアニメ好きからすれば好ましいものではない。狭い。同人臭。先細り。開いていかなければならないはずだから、小説についての小説は望ましくない。




(以上、5月14日のツイートをまとめたもの。http://twilog.org/sibafu_gokyo/date-130514)






■評論とか


  その後、評論の方の受賞作二作も読んだ。、1.木村友彦さんの「不可能性としての〈批評〉――批評家 中村光夫の位置」と、2.多羽田敏夫さんの「〈普遍倫理〉を求めて――吉本隆明『人間の『存在の倫理』論註』」


  どちらかと言えば1.木村友彦さんのものが面白かった。評論家の中村光夫さんは知らなくて、その分未知の部分が多かったからか。吉本隆明さんも名前だけよく目にして書かれた文章を実際に読んだことはほぼないのだけれど。


  しかし、評論の方もどちらも別に読まなくていいかな、という内容だった。特に2.多羽田敏夫さんの吉本さんについての方は評論とか批評ってくだらないなぁ、とついつい思ってしまう文章だった。なんだか虚しくなる。「存在の倫理」とかいうよくわからないごまかしたような用語を使って、テロとか社会について横から口挟んでるだけ、というようななんだか虚しさと無責任さを感じてしまった。


  小説でもそうだけど、批評にしても下手に政治に関わったものはあまり好きではない。空想は空想で虚構の中でやってればいいんだ、と思っている。それを現実の政治的なメッセージとかを込めたり政治を評論したりするのはなんかなーと思ってしまう。ぼくの考えはただただ現実逃避的なだけかもしれないが。


  政治が関わると、芸術としての純粋性が損なわれるように思える。だから、政治が含まれた文学も好きではないし政治も好きではない。






インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

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  この頃、阿部和重さんの小説がいろいろと気になる。よく名前を目にすることもあり。これだけ読んだことある。

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