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藤沢周 「月岡」 (『文學界 2013年3月号』掲載)

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文学界 2013年 03月号 [雑誌]

文学界 2013年 03月号 [雑誌]




おんせん、たのしみらねぇ。どうぶつえんもッ






  藤沢周さんの短編小説「月岡」を読んだ。


  50歳を過ぎた頃の男が、一人で新潟の月岡温泉に浸かる。浸かって、そして上がる。始めと終わりを言ってしまえばそれしかない。その間も、大したことはなにもない。


  妄想としては、『古事記』に出てくる日本神話のイザナミの話や、女が蛇になって追ってくる能の話や、老人が骸骨に見える、など。回想としては、男がまだ5歳や6歳くらいの頃、二度、この温泉へ来たこと。一度目は祖母に、二度目は父に連れられて。


  妄想の面では、作者が得意な仏教的だったり伝統的な和の雰囲気を感じさせる。そして、回想では幼児の記憶が、読んでいる自分の記憶と繋がっていき体験の共有が共感へと湯気と共に昇っていく。


  温泉へ浸かって上がって、というだけの話だけれど、この妄想と回想の混浴具合が稀にしか味わえない極楽におもえるのだった。いい湯だ。


  男が子供の頃の二度目の温泉は、父に連れられて来ていた。「初めから妙な温泉行だとは感じていた」と男は回想する。男の記憶と、現在での解釈によると、父親は知人のいる旅館に愛人がいて、その愛人に会いに来たのだ、ということになっている。それが真実かはわからないけれど、真実味と既視感を感じさせる。


  まだ5、6歳の少年は寝かされて父親の去り際に、自分たち親子やこれからどこへ行くの?という意味で「これから、何処へ行くの?」と訊く。その直後の父親の反応を現在の男は「息子の声とは思えず、返事をする喉が硬くなったはずだ」と断定する。父親の息子に対する、あらゆる子供に対する、大人としての後ろめたさ、隠しておきたい気持ち。それを読み取ってしまう少年。気づかなければいいのに、と思ってしまうけれど、なんとなく感じてしまうのだからしかたがない。


  海での記憶で、泳ぎの得意な父親が浜辺に少年を残してぐんぐんと沖へと泳いで行ってしまったとき。少年は「いくなー、いくなー」と「泣きながら声を張り上げた」こともあったという。この切実さ、何処へ行くのかもわからない。自分も、そして父親も。できれば一緒に行きたいのに、どこであれ。教えてくれないし、一緒にもいてくれない。


  「月岡」は、子供の頃のなんとなく切実な想いを、ふやけた雑巾であった自分を、ググッと握りしめて思い切りねじってひねって、何かを一滴、二滴くらいだろうけれど絞り出してくれた気がする。


  「やはり父親というものは子から去るものらしいのだ」、という諦念の独白が、刺になって身体の手の届かないところを突いてくる。






  藤沢さんの本を去年からずっと読み続けてきた。最近は、どこかの雑誌で連載でもしていなかと探していた。そしたら、たまたま書店でペラペラとめくっていた『文學界』の2013年3月号に「藤沢周」の名前を見つけた。短編の掲載だけど、嬉しかった。書き続けているという意味で、「生きてる」作家という認識を初めて出来た気がする。そして読んだ「月岡」はとてもよかった。これを書くために二度目を読んで、やはりいいとおもった。


  藤沢さんの小説に出てくる主人公、あるいは主観となる人物は30代以上が多いような印象がある。中学生、高校生くらいの青年もちらほらいるのだけれど、働き盛りの30代で渋さと青臭い尖った感性を持ち合わせた人物が多い印象だ。けれども、この「月岡」は現在は50過ぎの初老の男性とは言え、幼児時代の回想部分が多くて、珍しく幼児視点で書かれた小説だとおもった。そして、それがなかなか自分の体験と被さって、いい作品におもえた。


  「ブエノスアイレス午前零時」とこの「月岡」はけっこう似ているとおもう。どちらも温泉が舞台で、おそらく「ブエノスアイレス」も藤沢さんの出身である新潟が舞台なんじゃないかな。作中に明記してあったとしても、一度しか読んでいないので覚えていない。どちらもストーリーやキャラクターで読ませる小説ではなくて、言語イメージやあるいは情緒で読ませる小説、だということで近い。


  「ブエノスアイレス午前零時」が初めて読んだ藤沢作品だった。完璧な形ではないけれど、これは自分が持っている文学の理想、純文学の理想の形に近かった。まだまだ物足りなさがあり、妥協している部分もあるけれど、でも言語イメージが豊富に湧いてくる文章が素晴らしいと思った。「月岡」は理想という意味では「ブエノスアイレス」にも及ばないけれど、系統的には近いようにおもえる。


  「ブエノスアイレス」が自分のなかで見事にハマったので、同じようなものを求めて15冊くらい藤沢さんの本を読んできたけれど、そのなかで求めていた形のものはほぼなかったとおもう。これまた妥協すれば、「月岡」を読んでようやく近いものを見つけた、という具合だ。同じ系統で、もっともっと上と思えるものを読みたいと思い読み続けているのだけれど、なかなかない。とはいえ、別のハードボイルドであったりサスペンスな系統の面白さがあるから構わないのだけれど。でも、満足はしていない。


  以前に藤沢さんの短編「誰か、がいる」について、「なにも起こらない文学」という言葉を使って書いたけれど、温泉に浸かってそしてただ湯から上がるだけの「月岡」もまた、なにもおこらない文学に含まれる小説だろう。「誰か、がいる」や「袋」などのようにサスペンス的なドッキリがないので、静かに始まり静かに終わる「月岡」は前者二つとはまた異なるものではあるけれど。




  「月岡」を読んでよかった。まだまだ書いて欲しいしまだまあ読んでいきたい。とりあえず、「ブエノスアイレス午前零時」を近いうちに再読しなければならないと考えている。







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