※以下の文章は、作品のネタばれを含みます。
- 作者: 藤沢周
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1999/03
- メディア: 単行本
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『マダム・グレコ―フリーク・ストーリーズ』は今まで読んできた藤沢さんの本の中では異色の短編集だった。装丁が変にダサかったり、SFな話があり性的なものが強調されていたり、ポルノ的にエロい話もあったり。あとがきで本人が書いているように、同人時代の習作などの割と初期の短編が収められているからだろう。各々の作品の初出は86年から98年と幅広いけど、現代でありながらの古さと若さが際立つ。
それでも、「誰か、がいる」(これが最も新しい98年初出)は傑作だ。短編集『幻夢』にある「袋」に並ぶ傑作。「誰か、がいる」も「袋」もなにも起こらない文学を確固たるものにしている。
一人暮らしをしている女性の家で、誰かがいる気配があるのをその女性は不審に思う。そして、目を離している間に人形が動いていた。不気味に思った女性は監視カメラを仕掛けてみる。カメラをセットした次の朝も人形は動いていた。録画した映像を確認すると、確かに人形を動かしている人物がいた。でも、そこには自分しか映っていなかった。というのが「誰か、がいる」のあらすじ。
この10ページ程の短編小説を読み終えてぼくは、「ああ、またなにも起こらなかった」と思った。でもガッカリした訳じゃない、むしろゾクゾクした。なぜなら今までも藤沢さんの小説でいくつも同じような類型の話を読んでいたからだろう。読んでいながら、それを予想していなくて良い方に裏切られた。
この一篇を読んだだけでは何とも思わず、中身の無い話だなあ、くらいに思って通り過ぎてしまうのかもしれないけれど。でも、同じ作者がもうクセのようにそうしなければならないかのように、物語を拒否した物語を書いていることが面白く思ってしまうのだ。
「なにも起こらない文学」とはぼくが勝手に考えたジャンル名みたいなもので、「袋」を読んだ後に「誰か、がいる」を読んでいて頭に浮かんできた。藤沢さんは『マダム・グレコ―フリーク・ストーリーズ』のあとがきで「徹底的に物語を拒否していた頃」があったと書いているように、いくつも物語らしいオチを敢えて拒否した作品がいくつもある。
一つや二つでなく数々の集合した関連性のある作品があるならば、それはジャンルとして成り立つわけで、なにも起こらない文学というような名付けをしてもいいのではないかと思った。ネーミングセンスのなさは今は問題にしないとして、そういう集合があることが面白い。
「なにも起こらない」。誤解が生まれやすい言葉だ。だからちょっと付け足しをしておく。ここで言う「なにも起こらない」は始めから終わりまで平行線でゼロからゼロまでで終わるような物語を言うのではない。確かにそういう本当に平坦な事件も何にもないような物語はあって、例えば純文学とかに多い。でも、そうじゃない。そうじゃなくて、なにかが一度は起こる。事件が起こる。でも、終わってみたらなにも起こっていなかった。というものが、なにも起こらない文学だ。
極度に物語を否定して、物語としてつまらなくなってるのは近年の芥川賞とかを獲っている小説だろうけれど。しかし、物語に対して批判的という意味では芥川賞系の小説も藤沢さんの「袋」や「誰か、がいる」も同じだろうけれど。藤沢さんも「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞を受賞しているわけだけれど。
なにも起こらない文学は読者の期待を膨らませておいて、100からゼロに戻るような物語。風船を満タンに膨らませておいて、それで空に浮かぶでもなくそれを派手に爆発させるでもなく、ただ口のところを摘んでいた指を離して空気を逃がしていき、元のしぼんだ風船に戻すだけ。
文学に限らず、広く「なにも起こらない物語」と言えば例えば『千と千尋の神隠し』もそれに当たるんじゃないかと思う。あれは千尋が異界に行っていろいろあって結局元の世界に帰ってくる話だけど、結局のところ、経過として何があったとしても、程度の少なさとして「なにも起こらなかった」と言える。
一家が元の世界へ帰ってきて、車に木の枝などが被さっていたり千尋が異界での記憶と「土産」を持ち帰っているのだから厳密には何も起こらないとは言えない。でも、何かが起こったときっぱりと言えるほど、世界が危機に陥ったり崩壊したり人が死ぬわけではない。
別に世界が変わらなくても残るものはあって、それはなにかと言えば読者にとっての読後の余韻。なにも起こらない文学はなにも起こらなかったとしても、確実に読者には余波を起こす。
なにも起こらない文学に対面した時にぼくが感動するのは、物語内での変化のなさ、少なさや出来事の規模の小ささに対して、読者として受ける心の動揺のギャップなのではないかとおもう。物語の世界ではなにも起こっていないに等しいのに、それに比較すれば読者に対しては強い、巨大な衝撃を残す。
『千と千尋』やその原作の柏葉幸子さんの『霧のむこうのふしぎな町』などに似たおとぎ話、も藤沢周さんの作品群も大きく言えば物語の構造は変わらないんだろう。主人公が異界へ行って帰ってくる。それだけ。ただ藤沢さんは、異界を現実的に描く。だから現実と異界の境界が曖昧で読者に気づかれにくい。現実から異界へ行っても、最終ページには現実に引き戻される。
現実 → 異界 → 現実
上の図は、物凄く大ざっぱに見た時の『千と千尋』に近い形の物語の構造を示している。ここまで簡略化してしまえば『千と千尋』も「袋」も「誰か、がいる」も同じ類型の物語ということになる。ファンタジーの類型を表す言葉で、元々はトールキンの『指輪物語』に使われたらしい「行きて帰りし物語」に属すと考えてもいいのではないかな。
つまり、なにも起こらない文学=行きて帰りし物語、とも言える。
藤沢さんが、おそらく小説らしいという意味での物語を書くことを拒否していたことで、ファンタジー的な物語を書いていた、という結果はなんだかおもしろい。小説というよりも、民話(おとぎ話、昔話)に近い物語なのかもしれない。民話=ファンタジーというわけではないけど、起源を辿れば民話にも行きて帰りし物語系の話が多いだろうから。
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