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sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画などについて書こうかなとおもっています。

月がふたつありましてぼくがみっつ目の月をみているとしたらあなたのみている月はどれでしょう

創作物語
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  自室で文章を読むときも書くというときもいつも、アンビエントな音楽を流して、聴いたり聴かなかったりしているような気がする。それが良いとか悪いとかそんなことはまだわからなくて、特に別にいま決める必要はないからここで話題にするのもおかしいのだけれど。



  こんなことを考えていた。昔はわりとちゃんと家のお外に出ていて遊んだり喋ったり飲んだり歩いたりしていただろう。ところが今となると、金魚鉢のなかのビー玉のように赤い金魚のように透き通って漂うことはなく濁った砂と一緒に留まっているのだけなのだろう。



  それを聴いていた音楽から考えてみると、昔はロックとかテクノとかヒップホップとかエレクトロニカとかポストロックがあった。別にいまだってそれらを全く聴かないわけではなくて、然るべき時には聴いているのだけれど、比率がおそらく減った。減ったのは体感で、誰かが調べてそれでわかったことではないのだけれど、そう感じている。それで、今は主にアンビエントという落ち着いたものを聴いている。それで、ぼくは金魚鉢にいる。いずれは何も聴かなくなるような気がして、それでいてすべてが音楽になるように思えるのだ。



  この経緯は分子の動きで言うと、あっちからこっちまでとてつもなく早く動き回る空気分子たちから、杖をついてやっと最寄りの駅まで行けるという水分子に移り変わったようなものなのだ。そう考えると将来的にこの分子の塊は氷のような固体になることだろう。



  固体。たしかにそれは確たる存在だ。でも、いつも学校や会社に行くまでに通る電信柱を君が気にするだろうか?きっとその電信柱の名前さえ知らないのだろう。ぼくだって知らない。動かない者の存在は実は動き回る空気と同等かそれ以上に薄れてしまうのだ。



  だから、もうすぐ塊になろうとしているゼラチン状のこの分子の塊はいずれ名前を名札に忘れてきて北風のように向こうから吹いてあちらに消えていくようにおもえるのだ。



  そう、思った通りにそこの畳の上に寝転んでいたとらぬ狸に愚痴のようにつぶつぶとつぶやいたことがある。彼は一通りその粒がそろい終わるまでうんともすんとも言わず、窓のほうを向いて座布団を頭の下に敷いて枕代わりにしたままでいたので、まるで聞いてなんかいないのではないか?と不安に思ったのだけれど狸寝入りという言葉があるのだから、その慣用句を信じて刻々と粒を並べていった。



  話が終わると彼はすくっと、うなぎみたいに勢いよく起き上がって、座布団が宙に舞ったとおもったら跳び上がったとらぬ狸がその上にあぐらをかいたまま畳の上にすとんと着地した。むみゃむみゃと人にはわからない言語で何かを言っていたが、ただ寝起きでボケていただけなのかもしれない。



  こいつは他になにも着ていないくせに、立派に紺色のチョッキだけは身につけている。ポケットがふくらんでいたから何か入っているのだろうと思ってはいたけれど、そこから何やら冊子を取り出した。どうやらそれを読み出すらしく、両手でかっしりと持ちだした。表紙に「数学P」と書かれているのが見えた。数学AやBは聞いたことがあるけれどPは初めてだ。よほど進んだ勉強をやる教科書なのだろう。意外にも熱心なのだなと感心してしまったぼくが馬鹿だった。



  むみゃむみゃくちゃくちゃと口を動かしていたとらぬ狸が俄かに朗読を始めた。数学の教科書の朗読というのも変な話だけれど、どうやら文章問題らしい。「月がふたつありましてぼくがみっつ目の月をみているとしたらあなたのみている月はどれでしょう」。本当にそんな問題がそこに書いてあるのかどうか、その実際のところは甚だ疑問だ。答えはというと、考えてみてもちっともわからなかった。けれども、何を言うにしろなにかしらのこちらの応えを欲しているような表情を出していたので言ってやった。



  「ぼくはひとつ目の月もみていて、ふたつ目の月をみていてそれでいてみっつ目の月もみている」と。いつもは不気味ににやにやとしているくせに、好物のおやつを兄にとられた弟のような非常に悲しそうな顔をして、はずれ!と大きな声で叫んだ。どうして!とぼくも叫んだ。いや、別に自身の出した答えに絶対の自信があったわけでもそれが合っているはずだと主張する気もなかったのだけれど、こんな数学の問題とも国語とも思えない理不尽な問題を出されて、こんな簡単な問題も解けないほどうすのろだったのか……、と失望しているような表情を目の前に出されることになんとなく納得がいかなかったのだ。



  「どうしてもなにも、なぜなら君はすでに目玉ふたつを目玉銀行に預けてしまっているからだよ。おやおや無駄だよ、今から取りに行こうったってあれは定期預眼の口座に入れてしまったものだから、今の段階で下ろすにはえーっと目玉よっつは必要だろうな。目玉なしで引き出しができるのは、えーっと325年後というところだろう。二、三時間前の出来事も覚えていなくてとつぜん怒り狂いだすようじゃやはりロボトミー手術が必要かな?」。そうだった。たしかにこの自身の分身であるとらぬ狸の言うように、目玉は預けたのだった。



  目玉はない。もちろん自身の影もなければ、影を生むはずの身体も消失しているのだ。最後の砦だった目玉もないとなれば、ぼくはいないも同然なのだ。月はひとつも見えやしない。




壁 (新潮文庫)

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