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海猫沢めろん「モネと冥王星」、アントワーヌ・コンパニョン「文学は割に合う」(『群像 2012年9月号』)

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群像 2012年 09月号 [雑誌]

群像 2012年 09月号 [雑誌]


  もう10月号が発売されている文芸誌の『群像』ですが、舞城王太郎さんの中編小説「私はあなたの瞳の林檎」に加えて感想を残しておきます。




海猫沢めろん「モネと冥王星
  舞城王太郎さんもそうだったけど、海猫沢めろんさんも初めて読む著者。「モネと冥王星」という中編のタイトルもちょっと目を引くけど、その何倍も「海猫沢めろん」という名前は凄い。『群像』の表紙において場違いというかなんというか。漫画家やライトノベル作家のような筆名だ。


  でも、そんな第一印象とは打って変わって、この作品はなかなかちゃんとした純文学っぽくはあった。モネの印象派絵画の霧のような浮遊感がときどき現れるのがよかったが、その割合はすくなく、タイトルの印象からすると意外と現実的な話だった。


  全体的に悪くはない。でも、心とはなにかとか生とは、死とはなどの哲学的な問いがあまりにもストレートに語られていて、中学生がなにかに目覚めてひとり語りをしているよう、で読んでいて恥ずかしかった。主人公の女の子のモネは中学生で、彼女自体がそういった中二病なのは問題ないのだけれど、それに引きづられて大人たちまでも哲学に耽ってしまっていて、結果的に作品全体が甘酸っぱいものになってしまっている。


  ぼく自身も、中学生の頃というのは哲学っぽい思索に目覚めた時期で思索に燃えていた時期だったとおもう。ぼくらの世代では、おそらくケータイのブログが出始めたころで、そういう小規模で内輪なネット上の壁に、哲学味の私的で詩的だったりエッセイ風だったりするテキストを刻み込んでいったものだ。


  ぼく自身も昔からネットに書くほうではあったし、友人にも書く人は何人かいて、そういったいちごの汁を出したり舐めたりしてきた。そういった甘酸っぱいようなほろ苦いような思い出が思い出された。


  純文学において哲学的問いの要素は必要だろうし、その要素がある作品は好きなほうだとおもう。でも、あまりにも露骨にそれが前面に出ていると物語の度合いが低くなって、おそらく自慰行為のように見えてきて、キャラクターのセリフでも地の文に書かれたものでも、その哲学的解答は真剣に読もうという気にはなりにくい。


  今回の「モネと冥王星」も、だから、あまりそういった部分は読むことができなかった。




  ただ、「心はどこにあるか?」というような問いへのモネの母親の解答には共感できた。モネの母親は科学者で、ひどく芸術を嫌い科学を信頼して合理的で人間味の薄い人間だ。詩や絵を好む娘のモネにとっては敵役であり、彼女の一人称で語られるこの作品を読む多くの読者にとっても悪者として映るだろう。


  その母親は「決して、心や自分や世界がひとつだけで存在しているわけじゃない。脳は環境が変化すれば、それにあわせて考え方を変えることができる。(中略)私は人間と環境はセットで自我を生むと思ってる。そして私たちの心は環境なしには存在しえない」と語る。


  この母親の心の解釈にぼくが共感できることも、このセリフをこの母親が言うことも意外だった。モネの母親は「感情を嫌い、理性的であろうとしながら、いちばん感情的な」ひとだからこそ、なのかもしれない。




  考えてみると、この『群像』の9月号で大きく幅を取ってそして並んで掲載されている中編の舞城王太郎さんも海猫沢めろんも、どちらもサブカル系の側にも所属している作家であり、そういう作家が書いた純文学となっている。例えばライトノベルと純文学では、作品としては二つの間に壁はあるだろうけど、作家としては自由に行き来できる環境になってきているのかな。読者はどうだろう?二層に分かれたままなのか。





■アントワーヌ・コンパニョン「文学は割に合う」
  フランスの文学研究者アントワーヌ・コンパニョンによる講演録。「文学は割に合う」というタイトルは開き直ったように打算的な文学の在り方を示していて面白い。


  高等教育での文学に必要性はある、と結論付けているこの講演。文学部の学生が大学などの高等教育で就職の際に不利なことや就職後の仕事上で大学での教育がどのように役立つのか、ということにもかかわる話で、いろいろな文学者などの言葉を引用して語っている。文学が何の役に立つのか?から始まり、文学とはなにか芸術とはなにか教育とはなにか、と問いの繰り返しが広がっていくようなテーマでもある。


  たしかに、ぼくも文学を過去にやっていたりいまも半分そのような状況だけど、文学のこれがなんの役に立つんだ?と疑問になることはある。でも、コンパニョンのこの講演録を読んでみると、なんだか安心できるようなところがある。


  『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストの言葉が引用されている。「芸術によってのみ、われわれは自分の殻の外に出られるし、ひとりの他人がこの世界をどう見ているかがわかる。それはわれわれの自身の世界とは異なり、芸術を介さなければ、その景色は月世界の景色のように見覚えのないものにとどまっただろう」。


  これをコンパニョンが次のように言い換える。「自分の殻の外に出ること、他人の眼で世界を見ること、他人の世界に接近すること、それはとりもなおさず、他人を知ること、他人に近づくこと、他人を理解することです。独我論象牙の塔とは反対に、文学とは他者を知り、現世を、この世界を理解する手段だというのです」。


  以上の部分にとても納得できた。


  講演録の中で触れられている『パリ20区、僕たちのクラス』という映画を見てみたい。




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