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川上未映子『へヴン』 ―ヒーロー引退の物語―

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  川上未映子さんの小説『へヴン』を読んだので、その感想を残しておく。ネタばれありです。




ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)




■あらすじ

  ……クラスメイトたちから日々暴力を振るわれ続ける「僕」はある日、『わたしたちは仲間です』と書かれた手紙を受け取る。差出人は、同じクラスの女子たちからいじめを受けているコジマだった。
  それ以来、2人の秘密の通信が始まり、「僕」はコジマの言葉を支えに感じ始め、少しずつ友情を育んでいく。……

(http://ja.wikipedia.org/wiki/ヘヴン (小説) 、より一部抜粋)




  後々触れるけれど、このあらすじのリンク先にある文章で「斜視が原因で」と書いてしまっていることが作品紹介としても作品自体の根っこの部分としても致命的だと思う。




  誰かに共感するのが難しい小説だ。いじめられっ子の主人公にもコジマにも全く共感できない。敢えて共感できる人物を挙げるならば、いじめっ子の二ノ宮の方だ。百瀬はよくわからない。百瀬は不安定なキャラクターに思えた。でも、主人公たちに共感できない、むしろいじめたくなるというのがイジメを題材にしたこの作品の意義なのかもしれない。
  『乳と卵』では男性はほぼ出てこなかったけれど、この『へヴン』では大人が中途半端にしか出てこない。この、近くに居ながらイジメという本質的問題に介入しようとしない無責任な大人という存在も、意義を持っているように思える。


  むごいイジメが繰り返されているにもかかわらず、大人はあまり出てこないし出てきてもイジメという問題に敢えて触れないようにしている感じがする。それに、大人であるぼくは読んでいて苛立ちを覚える。劇中の中途半端な大人たちは、「大人なら助けろよ」と読者に思わせるような効果がある。


  主人公の「僕」=「ロンパリ」は斜視が治ればいじめられなくなると思いこんでいる。内面の問題について結局、全く考えていない。始めから終わりまで、「僕」の内面の改善はタブーのように触れられていない。
  「斜視だからいじめられる」という思いこみは、物語の終わりが目の手術で終わってしまうことから、作り手もそう思いこんでいるように読みとれて、そして読み手にもそう誤解させるようになっていて、それが作品として非常に残念だった。


  見た目と内面はニアリーイコールであって分離できるものではないだろうけれど、いじめを解決するのに斜視を治せばそれでいい、というのは乱暴すぎる。その是非はともかくとしても、「いじめっ子を見返してやれ」というように激励されて格闘技に励むというストーリーはアニメとかにありがちな気がするけれど、行動の面だけで言えばまったくそうではなくて斜視にしか注目していなという点は面白い。この物語は、なぜその一点に絞り切っているのか。


  いじめに対しての態度が、強くなったりして敵に歯向かっていく物語(例えばサム・ライミの『スパイダーマン』など)と対照的に、『へヴン』の場合、いじめられるということに対しては諦めのような態度がある。コジマは「従ってるんじゃなくて、受け入れているのよ」みたいなことを言っていたけれど、けっきょく斜視が治ってもいじめられるだろうからやっぱりいじめへの諦めが前提になっているんじゃないだろうか。
  いじめは自分たちが受け続けるものとして諦めて、それでどう生きていこうかというのがコジマのスタイルなんだろう。




  「僕」はいじめを受けることの改善を求めるけれど、その方法は目の手術を受けることでありそれさえ済ませれば全く大丈夫だというような思いこみがある。
  肉体の手術によっていじめられっ子が強い方へ向かうという流れは、やっぱりアニメやマンガのファンタジー的なジャンルとの関連性があるように思える。具体例が難しいけれど、スパイダーマンとか仮面ライダーとかがそうか。仮面ライダーは別にいじめられっ子ではなかったかもしれないけれど、肉体改造手術によって強さを手に入れている。


  アメリカのそういうヒーローは強くはあったりする代わりに、見た目が変だったりその強さで目立ったりして社会からの批判の対象、つまりいじめを受けることもあるのだけれど。少数派はヒーローか犯罪者である、というような見方。


  この『へヴン』という物語において、「僕」は斜視であるからこそ主人公でいられる。斜視という突出した個性が、主人公の徴(しるし)となっているので。
  主人公=ヒーローという構造で見てみると、「僕」は始めからヒーローであり、最後には一般人に戻りたがっているということになる。このことからヒーロー引退の物語と言える。だから、手術が終わってしまえばヒーロー不在になり物語も終わったんだろう。ヒーローとしてコジマを助けられなかったという結果が、ヒーロー失格という実感を与えたのかもしれない。




  ハリウッドのマーベル・コミックとかDCコミック系のヒーロー映画ではくどいくらいに、主人公のヒーローの葛藤、苦悩などの心理描写に時間を費やす(そうでない作品も当然あるけれど)。一方、日本の『仮面ライダー』とか『ウルトラマン』などの特撮系ヒーローものは、物語の構造としては定型的のお決まりのものであり、ヒーローの内面性はあまり描かれない。そういう対立した性格の印象がぼくにはある。


  『へヴン』は「僕」の一人称で語られていて、当然その時の心境なども書かれているわけだけれど、この人物の内面性というのは実は空っぽなのかもしれない。
  その理由は以上に書いたように、いじめへの解決方法が目の手術であり、外面的部分のみの変化によるヒーロー引退の物語だからだ。だから『へヴン』は日本製ヒーローもの的でありながら、その物語の反転を描いている。一般人からヒーローではなく、ヒーローから一般人へ。






  川上美映子さんの作品はたしか『乳と卵』と『へヴン』しか読んでいないけれど、なんとなく気になる作家だ。どちらの作品も不完全な印象がある。ネットで見た文章*1で川上さんは「総合的な小説は書けないんじゃないか?」というものがあったけれど、この二つではたしかに書けていないように思える。「総合的な小説」の定義があやふやだけれども。
  川上さんには期待もあるから、この作品の評価はそんなに高くない。もっと良いものを読みたい。
  しかしこの文庫版は、単行本から文庫化したわりにはあとがきも解説もなくてちょっとガッカリした。本編の後に何も文章がなにもないと物足りない。



  アメリカでは障害者のことを「チャレンジド」と呼ぶことがあるらしい。困難に立ち向かう人、というような意味だとか。この呼び名が良いか悪いかは置いておくとして、なんとなくヒーロー的なキャラ付けのしかただなと思った。


  ブルース・ウィリス主演で、体が弱くて車椅子で生活しているようなマンガオタクの男性がヒーローに憧れて危ない方に向かう『アンブレイカブル』という映画を思い出した。子供のときに見たきりだけれど、けっこう良かった記憶がある。


2000: Unbreakable Trailer HQ





  川上未映子さんの『乳と卵』についての感想も書きました。




≪『乳と卵』の「ほんまのこと」≫




乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)




以上の文章は「読書メーター」に投稿した感想の編集と加筆をしたものです。

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