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他人は自分のことを「がっかりするほどを見ていなくはない」と信じ込むということ

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人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない

人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない




  幻冬舎(総合出版社)社長の見城徹さんとサイバーエージェント(アメーバブログなど)社長の藤田晋さんの共著二冊目を読んだ。一冊目の『憂鬱でなければ、仕事じゃない』は4月に読んであった。どちらも講談社からの出版。




  どちらも構成やジャンルはあまり変わらない。エッセイ本であり自己啓発本でありビジネス書、という内容の本。見城さんの「憂鬱でなければ、仕事でない」や「顰蹙は金を出してでも買え」などの決め言葉が掲げられて、それを本人が解説やエピソードを書き、その後に藤田さんのリアクション、レスポンスがあるという構成になっている。


  この二冊目の本のタイトルになっている「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」という言葉。この言葉についての見城さんの解説と藤田さんのレスポンスを読むまでは、ただ「長くてよくわからないなー」というだけの印象しかなかったけれど、本を全て読み終わってみるとこの言葉が最も印象的かつ刺激的だったことに気づく。


  この言葉の意味を要約したのが以下の見城さんの説明。「人は自分が評価されていないと思うと、すぐに肩を落とす。しかし、それは過剰反応だ。努力を見ている人は必ずいる。その事実は、努力が実った時にしかわからない」


  評価されていないと思えるからってすぐ焦ったり、モチベーションを下げるのはよくなくて、逆にもっと努力するとか誰かが見ていてくれると信じるということの普遍的な大切さを語っているのだとおもう。


  ぼく自身の話で言うと、なにかしらのコンテンツをネットで発表することが多い(ブログのこのエントリーもその一つ)。だから、例えばツイッターでのリツイートやお気に入り、フェイスブックでの「いいね!」などは評価の指標になる。そういう反応がなかったり期待以上に小さいとやりがいに疑問を抱いてモチベーションが下がってしまうことがある。でも、それがないからって誰も見ていないというわけではないし、長い目で見るのも大切なんだろう。


  仕事でも趣味の範囲の活動でも、やはり誰かに見てもらえたり気にしてもらいたいと思うもので、労力に相対してその期待は上がると思う。期待をするなとは見城さんは言わないけれど、直後に評価が下されるとは思うな!ということを言っている。


  ただ、要約の部分で「その事実は、努力が実った時にしかわからない」とも書いていて、これはちょっと無責任ではあるし努力が報われないことがある現実への保険のようにもおもえる。すごく曖昧なことを言っている。でも、曖昧ということは左右どちらにも傾くことがあるということで、そこには可能性も残されている。




  最近、ビジネス書を読むようになった。自己啓発系もビジネス系の本も前は好きではなかったし、今も堂々と読んでいると言うのは恥ずかしいような気持ちがある。これらはまやかしのマニュアル本のように思える時があるからだろう。


  極端に言えば、ビジネス書に絶対的な真実(があると仮定して)は書かれていない。そこに真実を求めるのは間違っているし、著者も書こうとはしていないだろう。ただ、著者も読者も信じたがっているだけなんだとおもう。じぶんのモチベーションを上げたり高い状態で保つために、それが嘘だとしても信じ込みたがっている。


  そういう行き過ぎたら宗教になるような怪しさがあるから、ぼくはビジネス書とかは苦手でもある。でも、時には信じ込むことがみんな必要なんだとも思うようになったわけだ。


  日々の運動の向上のために、ぼくは「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」という言葉を信じ込もうと思った。




憂鬱でなければ、仕事じゃない

憂鬱でなければ、仕事じゃない

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