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『ダークナイト』はご都合主義な映画におもえる

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  クリストファー・ノーラン監督による『バットマン』シリーズの最新作である『ダークナイト』。この映画を私が観たのは去年、2010年の9月だ。最近なんだかやっぱりこの映画が高評価なのが気にかかってしまって、よく煩悶している。


  映画を観たときには、この言葉はこの映画に当てはめる言葉として思いつかなかった気がするが、やっと出てきたちょうど良い言葉は「ご都合主義」というものだった。そこで、「ダークナイト ご都合主義」で検索して出てきたページを引用してみる。


「敢えて苦言を呈したい」
(2008-08-31 07:03:14+09 by 顔なし)




肝心のところがほとんど台詞処理なので、説得力が全然なかった。
ジョーカーの提示する悪の哲学も、底が浅くレベルが低過ぎて、悪ぶってる不良学生のひけらかすポリシー程度のお手軽さしか感じられない。
人間のギリギリの良心に委ねて試すのではなく、その良心を逆手にとってあざ笑うような絶対的な悪を突き詰めて表現できないなら、ジョーカーの存在意義など全くない。
ヒースの熱演とも乖離しているように思った。
所詮は予定調和の域を一歩も出られない、頭でっかちな監督の限界を感じた。
絶対悪に対しての認識が甘いのではないか。
バットマンの行動も、話に合わせてわざと間を取っているようにしか見えず、白けてしまった。
死んだはずの登場人物が実は生きていたという展開も、こんな無理のある使い方をしてしまうと 何でもありの世界を招いて、今回ポイントで死んでしまった人物も、次回で簡単に生き返ってきそうで、悲劇のニュアンスが薄れてしまい、ゲームっぽく感じられ、乗れなかった。
総じて登場人物が、ストーリーラインに沿って都合よく動かされているだけの駒でしかない。
どこまでいっても寓話や神話に到達できない、ムードやナルシズム優先のマンガ映画。
こういうご都合主義の乱暴な、ある意味幼稚な作品に対して、学生や子供ならともかく、いい大人が諸手をあげて、シリアスなドラマとして絶賛している現状というのはいかがなものか。
CGをはじめ技術の進歩につれて、逆にその手軽さが、象徴や暗示という高度で知性の必要な見せ方を隅に追いやって、脚本や演出の深みをないがしろにして、観客から思索や熟考という贅沢を奪っているのではないだろうか。
その割りに、台詞も上映時間も冗長なのが皮肉だが。

(「ぴあ映画生活掲示板」、http://cinema.pia.co.jp/com/20466/404494/)




  この投稿がすべて私の意見と重なるということではないけれども、大分納得したところがある。似たような感想を『ダークナイト』に持っている。この投稿に対するコメントがたくさんあるようで読み応えがありそうだ。私は上のちょっとしか読んでいないけれども。


  ノーラン監督の作品は好きだ。特に『メメント』や『インセプション』。でも、『ダークナイト』の後に(ふつうと順番が逆だが)『バットマンビギンズ』を観て、ノーランの『バットマン』シリーズはダメだとおもった。以前にも同じようなことを書いたが、アニメでやればまだ良いかもしれないが実写でノーランのシリアス調でやってしまうとやっぱりご都合主義な部分が強調されて見えてしまう。アニメでやるべきだった。というか作るべきではなかった。


  バットマンの「不殺」の信念というのがある。これがご都合主義と見えてしまうすべてだとおもう。人を殺したという明確なシーンはなかったとおもうけれども、敵を倒す過程で建物をブチ壊したりしている。もう映画をあまり覚えていないけれども、「不殺」って情けないし自己満足だよなー、と観ていて思った記憶がある。そして、この映画を観て「深い」とか「シリアス」「信念がある」という表現を本気ですることが、今でも理解し難い。



■『ダークナイト』(The Dark Knight)(2010年9月4日)
http://d.hatena.ne.jp/sibafu/20100904/1283544057
観賞直後に書いたであろうエントリー。



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