sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

愛読

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  ベッドの上で薄オレンジの明りで、『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー著)の25章を読んでいた。25章というのは、全26章のうちの25章だからほとんど物語の最後だ。ホールデンがフィービーに彼女のクリスマスのおこづかいを返そうとするのだが、「それ、とっといて。あたしの代わりにしまっといて」と言い、受け取ろうとしない。また、続けて「お願い」とまで言うしまつだ。気が滅入るホールデン。ぼくまで気が滅入ってくるから困る。悲しいわけではなくその優しさに、潰されてしまうみたいな感じなんだ。


  フィービーはメリーゴーランドに乗って回っている。ぼくらはそれを眺めているわけだ。ぼくは、この本の角のところを右手で持っている。ページを何の用がないにもかかわらず、親指で撫でるように端だけめくっていく。この端にパラパラ漫画が描いてあったら、いつもそれを楽しめるのに。ぼくは、愛犬の背中の毛を撫でるように。ぼくは、妹の薄い金髪の髪の毛を撫でるように。ぼくは、恋人の髪の毛を撫でるように、本の角をめくっていた。


  こういう時、ぼくに客観性なんてものはちっともないのだろう。入り込んでしまっているのだから。これが「愛読」ってやつで、ぼくにとって『ライ麦』は「愛読書」なのかもしれない。「愛読書」という表現は気色悪いから嫌いなのだが。しかし、この文章がおそらく他人が見て心地がよくないように、愛読というのは本当に愛するみたいなものなのかもしれない。ぼくは、みんなを愛するみたいに本の角を撫でていた。




  誰かと別れる時、「幸運を祈る!」なんて絶対に言いたくない。それはホールデンが言っていたことだが、ぼくも同意する。「祈る」ったって何に、誰に祈ればいいのだろうか?「幸運を願う」ならまだ分かるかもしれない。だが、ぼくにとって本当に、嘘偽りない気持ちとして「幸運を願う」人なんてそんなにいない。そもそも、ぼくが祈らなくても願わなくても誰だって上手くやっていくのだから。神社なんかでやるお賽銭みたいなくだらないことを、人と会ってそして別れる度にいちいちやっていられやしないよ。


  ぼくが本当に、嘘偽りない気持ちで「幸運を願う」のはほんの数人だろう。そして、ぼくが言葉に出して言うのはたぶん一人だけだ。その人にしか言いたくないし、その人に言いたいから他の誰にも言ってやらない。「幸運」がなにかはわからない。ただ漠然と、幸せになって欲しい、そう願う。これというのは、かなり他人行儀なお願いなのだと身勝手ながらに思う。


  本当なら、「俺が君を幸せにする」と言い切ってみせるべきだ。そうすべきだろう、実際にできなくとも。でも、ぼくは身勝手な野郎だからそうは言ったことがないし、これからも言えないかもしれない。ただ言えるのは、他人行儀に「幸運を願う」と、それくらいだ。ただ、その気持ちは本当で、勝手だが幸せになって欲しいとは思っている。でも逆に、そうとしか言えない自分が時に情けない。


  フィービーは本当に可愛い。フィービーを見ていると、まだ小さな妹が欲しくなってくるから困るよ。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

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