日本酒はじんわりと身体に効くな。
まだ暗いうちの朝に起きてしまった俺は、ベッドのなかで、ひっそりとひとりそう考える。身体がずんぐりと重く、顔がかすかにぽかぽかしている。
今日はなにもない日だが、昼くらいまでは何も考えないで寝ているつもりだった。が、その計画は果たされそうにない。
しかたなく、一度は起き上がってトイレを済ませてから部屋に戻る。電気スタンドの暖色系で照らされた部屋へ。
机の隅には二つに重ねられたマグカップ。俺はパソコンを起動させて、暖色系の音楽を流す。
その時、なかば癖として長袖の両腕をヒジまでまくる。そして異変に気づく。
左腕には自分で書いた文字。右腕には彼女の書いた文字。普段はない、彫られた入れ墨がそこにはあった。
嫌な思い出だった。見た瞬間、後悔や自責の念が頭に浮かんでくるのだった。
彼女の終電の時間などを調べた後に、それをメモろうとおもったのだが、紙が身近になく俺が俺の左手の手のひらに時間をメモしたのが始まりだった。
「23:57」
「00:16」
「23:00」
というように、もう消えかかっているが三つか四つの時間がかかれている。上に挙げた上の二つは終電の時間で、一番下はなんだかわからない。
机に腕を立てながら、そして眺める。右腕には綺麗ではないが、可愛らしく整った青色の文字が連なっている。
「2月3日〜2月6日マデ」
末尾にはご丁寧に小さなハートマークまで入っている。皮肉にも。
彼女が近々演劇をやるとかで、その公演日や参加者、会場の住所、会場名などが青で書かれている。
「下北駅から徒歩五分」
「下北沢 オイスターハウス」
ただそういう事務的なことだ。ここに書かれていることは。
右腕に、他にはふざけて書かれた絵というかロゴマークみたいなものがあった。
「キケン。取扱注意」とか「安心」など。それらが、三角や丸で囲まれたりしている。これは腕の外側に書かれていて、自分ではかなり読みづらい。
それとは別に、すこし離れた腕の内側には「キケン」に対抗して俺が書いたふざけたものも残っていた。
それは「安全」と書いたつもりだったが、左手で書いたものだから字がもっとめちゃくちゃで、読めても「安生」という、意味不明なものになっている。
(「あんじょう」?「やすお」?だれだ?)
左腕の方には、自分で右手をつかって緑色で書いた文章。
「Y子は今日中に
帰宅する。」
文章は二行で横に書かれていて、それぞれアンダーラインまで引かれている。
「今日中」の部分は、俺が書いたあとにもう一人がなぞったから強調されて重厚に見える。
それらの下には、俺ではない者に書かれた、ただし書きがある。
「22:30にはウチに着くようにする」
またハートマークが文末についていやがる。今日はハートマークがイラつく日だ。
その文の下の空白には、二人の名前がフルネームでサインされている。
俺の名前は読めないくらいによたよたでめちゃくちゃに汚い。彼女の名前は肉の上の皮という紙上にもかかわらず、彼女みたいに美しく彼女なりにきちんとまとまっている。
この左腕は、契約書みたいなものだった。この「今日」とは今から見て「昨日」のことだから、今となっては何の機能も果たさない。
この契約は、無事昨日実現したのだ。それはそうすべきだからだし、彼女がそう思い俺がそう思ったからだ。
彼女はちゃんと帰るべきだった。それは実現された。だが、俺は暖色系に照らされた両腕を見て、こんなに不甲斐ないことがあっただろうかと考える。
明文化されたこの公文書のおかげで、無事にことが済んだのだ。
この条約は密約のようなものだろう。だが、これはあくまでも正しい方向に国を動かす密約だと俺は信じている。
しかしながら、俺がその外交関係の残骸をながめてみると、終わりの実感が湧いてくるものだ。
右腕の事務的なことはともかく、左腕の契約はおれは心から守りたいと思った。
しかし一方で、あたりまえだがそれは欲求として、一緒に、純粋に、居たくて、こんな紙に書かれた空想上の概念的で非感情的なものは破り捨てたい気分でもあった。
直情的にありたい気持ちもあった。
だがやはり、俺は左腕に書きながら考えていた。
というか、俺は左腕に書きながら声に出して言っていた。
「この約束を破ったら、ブラックジャックみたいにきれいにこの部分だけ、皮を切り取るよ」
俺は結局、飾りに飾ったセリフのような言葉をにやりとしたしたり顔で発して、そして彼女も笑っていた。
そして、文章を書き終えるとそれを四角くゆらゆらと心許ない線で囲った。
(当時は直線をきれいに引いたつもりだが、見返してみるとめためたに歪んでいるし、角も直角でもなんでもなく丸まっている。「威厳」ってものがまったくないんだよ、ここには。情けない)
このか細い緑の線では、一度ではさほど強調されないから、三回ぐるぐると四角をなぞった。これなら、メスも入れ易いだろうと。
実際メスを表皮にあてることはないだろうが、ある意味で、俺の頭のなかで左腕をメスが切り裂いていく映像が明確になるのだ。彼女の目にもそう映ったと思っている。
メスを入れるのは想像してみるとかなり痛そうだ。赤々とした肉が丸見えになるのだろうか。
領域の侵犯ゆえに大きく四角に切り取られた皮は、どこへいくのか。残された左腕の無惨な姿。
俺は痛いのが嫌だから約束を守った。
痛いくらいな罰を想定しなければ俺は、約束を守れそうになかったから。
彼女だって、俺ほどではないかもしれないが苦渋の決断であり、この契約はつらかったはずだ。俺はそう信じている。
だから、俺だけがわがままを言っていてもしかたがなく、自分の皮を切り取るよりも罰当たりな行いはすべきではないと思った。
そうして今の朝、右腕の外側には公演日などが書かれ、左腕の内側に記された契約書がまだ残っている。
鎖骨と首のあいだにある、紫の痣みたいなキスマークもそうだが、これらの文章も少なくとも数日したらまっさらになっているだろう。
でも、左腕に書かれたことは特に忘れてはいけない気がする。
それは彼女のためであり、ゆえに俺のためでもあるから。
酔い明け。この朝に飲む冷えた牛乳は、死ぬほどうまい。冷えていれば水でさえうまいのだが。この牛乳は格別だ。
熱湯の冴えるブラックを飲んで、現実に戻ろう。