sibafutukuri

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「死にいたる病」

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Beck - Guess I'm Doing Fine


死にいたる病」。
「バナナフィッシュにうってつけの日」(J.D.サリンジャー作)についての批評を読む。
音楽を聴く。
Beckの“Sea Change”をヘッドフォンで聴く。
そうすると、忘れていたものがグッと頭の中から湧き出てくる。
とても悲しくなる。
打ちひしがれたようになる。
うってつけの日」の、シーモアのどうしようもないの手遅れさを悔やむ。
シビルのあどけなさや、優しさを思い出す。
シビルの説教臭さ、レディーらしさで安心する。




  純粋にテクストを読んでいたい。そしてテクストの快楽を味わいたい。だが、それは可能か。そもそも求められているのか、俺にはそれが必要か。それは分からないが、ふつうはそれをやろうとしないし、みんながそれをやっていない。出来ていない。作品の批評を読むというのは、ある意味で反則技であって、矛盾する行為だが許して欲しい。


  書こうとしない読者は、宮沢賢治の「小作調停官」と題された詩があっても、その「小作調停官」と本文の関係を読もうとしない。そして「ぎらぎら白いそらのしたに」とそこに書かれていても、そこは読解においては重要じゃないと決め込んで「ぎらぎら」がどういった状態の形容か、また「ぎらぎら白いそらのした」はどうなっているか、などは読まなくて構わないと思っている。「ぎらぎら」ってなんだ?


  賢治の詩はむつかしい。ほとんどこれは「読み得ないテクスト」だ。だが、読解をするにあたって、「ぎらぎら白いそらのしたに」を無視して本文にはちっとも書かれていない、岩手県の冷害について語ったりする。それはテクストを読んでいない。そんなのは『ウォーリーをさがせ!』みたいなもので、大人から感嘆符付きの命令形で「やれ」と目の前に突き出されたものをこなすという、受動的で隷属的な「読み」でしかない。そこでの快楽は間違い探しの間違いを見つけた時の快楽でしかない。そうでなくて、「ぎらぎら白いそらのしたに」も平等に読むべきだし、そこには十分、象徴から想像できる余地がある。


俺は「バナナフィッシュにうってつけの日」を書きたい。


以上、利沢行夫さんの『サリンジャー 成熟への憧憬』を読みながら。




「小作調停官」(宮沢賢治作)
(http://why.kenji.ne.jp/sonota2/k02kosaku.html)
宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」さんのページより。


ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

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