sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

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  ああ、寒くてなのかなんなのかはわからないが鼻水が止まらない。自分の部屋が寒過ぎる。いや、寒くはないはずなのに。暖房をつけている。こたつに足を突っ込んでいる。Tシャツの上にジャージを着て、その上にパーカーの合計三枚を着ている。半ズボンの上にスウェットのズボンをはいている。でも、鼻水が止まらない。


  ドビュッシーを聴く。なんだかちがう。音響とはなんだか違うし、つまらない。だいたいイントロだけ聞いたことがあるのだけれども、すぐに知らないつまらない曲になっておもしろくない。

  サティを聴く。どこかで聞いたことがあるのだけれども、音響とはなんだか違うし、つまらない。だいたいイントロだけ聞いたことがあるのだけれども、すぐに知らないつまらない曲に変わっていっておもしろくない。これらの優しさはおしつけがましくどことなく偽善的に、そして(音楽的音楽的に)俗っぽく感じる。サティは特に音響的音楽に近いのだけれども、なりきれていない。

  エルヴィウムを聴く。アルバムとしての“An Accidental Memory In The Case Of Death”、このピアノの単調さ。ミニマルな音響。ミニマルに存在する音。なぜミニマルが心地よいのか、その分析は難しいが、この制約的で静かな印象主義的風景画はこの三つの音楽のなかで、最も音楽的ではなく最も音響的であると言える。

  技術を聴きたいのではない。が、彼らは技術を聴かせようとしてはいないか?結局のところ、弾くことの技術(それのひけらかしの権威、その権威の神話)に囚われている音楽を、ドビュッシーやサティには(まだ)感じる。あるいは、弾いた者が表現をすることに執着している。

  だが、エルヴィウムのミニマルなピアノはちがう。これは弾かれた音をこちらに委ねる音楽だ。おそらく、楽譜に記述されたものよりも音作りと空間への音の広がりがそこでは重要とされている。だから音響主義と言えるわけだが、楽譜以降の決定は音源だけでは終わらない。音源以降の音響的決定は我々の手中にあり、我々はここで「演奏」をすることになる。

  ドビュッシーもサティも決して悪くはない。しかしこの三者でならべた場合、相対的にエルヴィウムは音響的音楽である。


Eluvium - An Accidental Memory In the Case of Death

Accidental Memory in the Case of Death

Accidental Memory in the Case of Death

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