sibafutukuri

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メモン・バルト (『ラシーヌ論』から)

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  (前略)俳優が彼のラシーヌの台詞を言うのは、作家が自分のテクストのある種の単語に下線を引き、つまりそれをイタリック体にするのとほぼ同じことなのであって、教育的だが美的な手法ではない。




  意味作用のこのような細分化の目的は、聴き手の知的な作業を、いわば噛み砕いてやることである。俳優は、聴き手の代わりに思考する役を担ってやるという訳だ。ブルジョワ的悲劇俳優と彼の観客とのあいだには、奇妙な権威的関係があって、それはひょっとして精神分析的な定義をなされ得るものだ。観客は子供のようなものであり、俳優は彼にとって母親の代替物であり、俳優が彼のために子供の食べ物を細かくしてやり、細かく刻んだ食物を子供に与え、子供はそれを受動的に消化するというわけだ。


  それは、演劇以外の多くの芸術においても見いだされる、一般的な関係である。たとえば音楽では、「ルバート」*1がそれで、テンポを自由に引き伸ばすこの技法もまた、細部の誇張的表現であり、個別の意味を全体な意味の代わりにし、演奏家を聴衆に取って代わらせることだ。


  ラシーヌ悲劇の朗誦法は、多くの場合、この「ルバート」への配慮によって、暴力的に支配されていると言える。そして「ルバート」が、その不謹慎によって音楽テクストを破壊するのと同じく、ラシーヌ悲劇の朗誦法においても、細部の過剰な意味作用が、全体の自然な意味作用を破壊している。極端な場合には、こうして俳優によって噛み砕かれたラシーヌは意味不明のものとなる。というのも、極端に明快な細部の累積が、意味不明の全体を作り出してしまうからだ。芸術においてもまた、弁証法的な法則が、全体とは部分の純粋かつ単純な総体でないことを要求している。


(ロラン・バルト渡辺守章訳 『ラシーヌ論』、「第二部 台詞としてのラシーヌ」、p216-217 より)




  なるべく読み易くなるように、本来段落が分かれていないところであっても改行をして段落分けを行った。


ラシーヌ論

ラシーヌ論

*1: テンポ・ルバート(伊: tempo rubato)とは、テンポを自由に動かしながら演奏すること。rubatoとは「盗む」という意味。元来、同じテンポを保つべきとされる西洋音楽の演奏において、同じテンポを保たないことである。楽譜には単にRubatoと記されることがある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/テンポ・ルバート)

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