もし、私の心が人妻に対して愚かとなり、
わが友の戸口で待ち伏せしたことがあるなら、
私の妻が他人のために臼を引き、
他の人々が彼女の上にかがんでもかまわない。
まことに、これは醜行で、
裁判人たちに委ねられる咎である。
まことに、それは奈落の底までなめ尽くす火であり、
私の財産を根こそぎにしないではおかない。
以上『ヨブ記』、31章「潔白の誓い」の一節。
そこの注には以下のようにも書かれている。「隣人の妻を欲求することは十戒において禁止されている」。
(『<旧約聖書 XII> ヨブ記 箴言』、岩波書店)
愚かにも、わたくしはその神の与え給うた十戒という掟を、既知でありながらも破戒しようとしているのではないか。この不義による侵犯は、願うままにされるのではないのだ。何者かがそうさせ、何かがそうさせるのだ。いや、しかしながらあの絶対的に輝く姿容に目が眩まないものがあろうか。わたくしの目と、わたくしとの間での契約は既に、わたくしの知らぬ間、知らぬ場所で済まされていたのだ。どうして未婚の女を物色することができよう。
これが不義であろうとも、それが破戒となり世の身を崩すことになろうとも、この愛は切に待っていた光だと信じよう。闇は来ないのだ。災厄は来ないのだ。高きに在(いま)す全能者(シャツダイ)は、不義の輩には災禍を下し、不法を行う者には災厄を臨ませるだろう。彼こそが、わたくしの諸々の道に目を注いでいながら、わが歩みのすべてを刻々と数えていないだろうか、と畏れ、畏れ続けることになることを、また畏れるのだが。しかしながら、彼女へのこのわが熱情を、誰彼が鎮めてくれることがあろうか。それを待とうと言うのならば、老いさらばえたわたくしは地より汲み切った水をもてあますオリーブの枯れ木となるだろう。
自殺をしてはならない、と社会や教育やあるいは親から思いこまされてきたように、不倫を不義とおもうその観念が、ここやそれ以前から発するとするならば、それらは我々の原初的教義(ドグマ)ということになるのだろう。わたくしが『ヨブ記』を手に取ったということは、幼稚園に入園したと同様のことであり、現在無教養であり無人格で野生のわたくしが人間に矯正される道にやっとのこと立った、ということだと思うのだ(それは文学のためであり言語のためではあるが、ドミノ連鎖的に全体のためになるだろう)。
- 作者: 並木浩一,勝村弘也,旧約聖書翻訳委員会
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/03/26
- メディア: 単行本
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