例えばこういう一文がある。
ラ・ザンビネッラはサラジーヌに恐怖(呪詛、烙印)という彼女の条件の本質をはっきりと示す――言葉よりも、音(叫び、感嘆)の方が、音よりも外観の方が、外観よりも表情(真摯さの極限 nec plus ultra)の方が真実であることを要求するあの記号のアレティックな〔合真理的〕位階のようなものの力によって、サラジーヌはメッセージを受け取る。
以上はロラン・バルトの『S/Z』より。相変わらずバルトの文章というのは、フランス語から日本語へ訳された文ということもあってか、読みづらいし分かりづらい。
ところで、この文中の「の方が」を「のが」に代えてみると、どうなるだろうか(私の作業としては、「方」という文字を三つ削除するだけなのだが)。
ラ・ザンビネッラはサラジーヌに恐怖(呪詛、烙印)という彼女の条件の本質をはっきりと示す――言葉よりも、音(叫び、感嘆)のが、音よりも外観のが、外観よりも表情(真摯さの極限 nec plus ultra)のが真実であることを要求するあの記号のアレティックな〔合真理的〕位階のようなものの力によって、サラジーヌはメッセージを受け取る。
この原文の特徴というのは、比較構文の「〜の方が」が三つ連なっているということで、こういう文章はあまり見ないし、読者のことをおもえばあまり書かないほうがいいだろう。それで、この三つの「〜の方が」を「〜のが」に代えてみたのだが、私は後者が気持ち悪くて仕方がない(ここで、「後者のが」というように無駄に「の」を入れる必要がなぜあるだろうか)。
おそらく、実際の発話上でもチャットやBBSでも比較の「〜のが」を使っているひとは、こういった堅い論文調の場合には、意図的か否かはわからないが、省略形を用いずに完成形を用いるのだろう。それがまた理解できない。そんなに、この「方」の一文字(あるいは「ほう」の二文字)を節約したいのだろうか?
私からすれば、発話上でも文字上でも、この「のが」を使う人は、日本語を話せていないし、日本語を書けていない、ということになる。意味は確かに伝わるし、私はそれを理解することができる。だが、それ以外に付随する不快感がなくならない限り、これを正当な日本語(なんて主観的で曖昧な表現だ!)とは認めない。どんなに砕けた場面であっても、この「のが」は、「死ね」というぶしつけな命令形以上に不快感を募らせる(冗談で使われる「死ね」は時に愉快でもある、しかし「のが」は何時でもその反対であり続ける)。
日本人とコミュニケーションをしようとしているのなら、この「のが」は使うべきではない。不快だ。
- 作者: ロラン・バルト,沢崎浩平
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