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「泉」 マルセル・デュシャン作(『社会学入門』から)

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「泉」 マルセル・デュシャン



  マルセル・デュシャンの「泉」がありますね。「コンセプチュアル・アート」の代名詞といえるものですが、今日では現物はない。ただの便器に「泉」というタイトルをつけただけで展覧会に出品して拒絶された*1。またデュシャンは、レオナルド・ダ=ヴィンチの有名な「モナリザ」に髭をつけて自分の作品だといってみたり、更にその後は、普通に売られているモナリザの複製画に自分のサインをつけて「髭をそったモナリザ」というタイトルをつける。これは何をしようとしているのか? 実際、皆さんもご存知のとおり、現代美術作品には、展覧会などのしかるべき場所に置かれていなければ、ただの粗大ゴミにしか見えないものがいっぱいありますね。それでは、粗大ゴミと芸術作品を分けるものは何か?

(稲葉振一郎著 (2009) 『社会学入門 <多元化する時代>をどう捉えるか (NHKブックス)』 日本出版放送協会、「Ⅱ 社会学はいかにして成立したのか」、「第7講 モダニズムの精神」より)



  最高にクールだよ、マルセル・デュシャンロラン・バルトの著作で、この「泉」については触れられていたと記憶している。だから、「泉」というこの衝撃的な作品については一応知っていた。だが、デュシャンの「モナリザ」に関するエピソードは全く知らなかった。考えてみれば、バルトだって社会学と密接な関係にあるわけだし、こういったものが出てきても不思議ではないのだけれども、大真面目に社会学についての本を読んでいるときに、「髭をそったモナリザ」なんて唐突に言われると電車の中でも噴き出す寸前になるのだ。


  デュシャンの作品や思想はいろんな角度から解釈し指摘することができるのだろうが、私がまっさきに思い浮かぶのはバルトの「作者の死」と繋がるということであり、著作権(copyright)への喧嘩腰な態度を評価したい。これは著作権という権利への攻撃というよりも、著作権を形成させている社会の慣習(ヒュームの言う「コンヴェンション convention」を意識してこの語を用いる)への当て擦りであると言える。



*1: 「この作品は、デュシャン自身が展示委員をしていたニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品されたものの、委員会の議論の末、展示されることはなかった。後年、デュシャンは『展示が拒否されたのではなく、作品は展覧会の間じゅう仕切り壁の背後に置かれていて、自分も作品がどこにあるか知らなかった』とインタビューに応えている」(『デュシャンは語る』p.108)(http://ja.wikipedia.org/wiki/マルセル・デュシャン)

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