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「テクスト理論の楽しみ」を知るために

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  精神分析学は、現象にはいくつもの意味があり、精神の領域における徴候にはいくつもの意味がある、という基本的な前提の上に機能している。つまり、それらの徴候は多義的であるという前提である。その反対に、意味の問題、とくに多義性の問題が深刻さを持っている(それにその問題は手を出しにくい厄介なことが多い)ことを証明しているのは、さまざまな制度、あるいは制度そのもの、社会制度が意味を監視し、意味の増殖を監視する役目を自らに与えている。(中略)また、文学テクストの解釈という別の領域でも、一種の制度による監視が行われている。この場合は、テクストを解釈する自由、つまり文学テクストが持ついわば無限の多義性に対する「大学」の監視である。

(野村正人訳、『ロラン・バルト著作集6 テクスト理論の楽しみ 1965-1970』、2006年5月、みすず書房)


  すこし長い引用になって申し訳ないのだが、ぼくは特に後半の「大学」が「文学テクストが持ついわば無限の多義性に対」して「監視」を行っているという部分がまさにそうだとおもう。そしてその監視はとてもくだらない。文学の自由、読者の読解の自由を奪うものだとおもっている。いまもなお、そういった監視のもとで文学研究をすることが優勢であることがぼくには理解し難い。ちなみに、バルトのいう「文学テクスト」とは狭義にいえば小説や詩のことだろう。


  例えば、「手(て)」という語を『大辞泉』で引いてみると大きく分けると16個もの意味がずらっと連ねてあるのがわかる(http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%A6%EF%BC%88%E6%89%8B%EF%BC%89&stype=1&dtype=0)。これは多義語であり、多義性を帯びている。もしこの「手」という語が作中にでてきたとすれば、語を単体でみても読者は幾通りもの読解を行うことが可能なのだ。また、実際にはそこに文脈も加味されるので複雑な構造上で読解は行われる。その読解の自由を妨げるのが、「大学の監視」である。


  それにしても、この著作集の六巻はいままで読んできたなかでも、随一のおもしろさだったとおもえる。内容を微かにおぼえているなかだと、「言語学と文学」や「構造主義記号学」、「意味の問題性」などの論文や批評文がぼく自身の生活のなかで思考することと見事に重なっていて(それはもちろんバルトのせいでもある)とても興味深かった。