sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

なにを「吸いません」だって?え?タバコかい?え?

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  「すいません」についてなぜこうしてわざわざ指摘をするかというと、この言葉が謝罪を表すものであるからだ。結局ぼくがいいたいことを簡略化すれば、これを使うな、ということであるのだけれど、これを一切使わないというのはぼくじしんにも難しい。

  これを許容できる場面としては、発話上の会話、マンガや小説のセリフにおいてなどがあると思う。逆に、許容し難いのはインターネットの掲示板、チャット、Eメールなどに謝罪のことばとして使われる場合だ。

  「すみません」にしろどちらしにろ、これが使われるのは一方に謝る理由がありもう一方には謝られる理由がある時なのだ。そういった場面で、「すいません」を使う人の気がしれないよ。ぼくからすればそれは、謝りつつも、ハサミの刃のほうをこちらに差し出しつつおじぎをぺこぺこしているようなものだ。彼らはこれを謝辞と思っているのかもしれないが、文字上で「すいません」なんて見せられるとせっかっくの謝意が台無しになっているように思えるのだよ。なにを「吸いません」だって?え?タバコかい?え?ぼくはタバコは嫌いだけれどもね、あなたの吸いません宣言なんてぼくにとってはどうだっていいことなのだよ。「すいませんぼくすいません」なんて言われた日には、滑稽すぎて噴き出すだろうね。


  謝罪ってのはさ、本当にこころのなかで謝っているとか悪い気持ちがあるとか、そんなことはどうだっていいことなのだよ。だって、誰にその瞬間の胸中がわかるっての?もしかしたら自身でも分かりはしないことなのにね。けれども、社交において謝る必要と言うのがあるわけであって、これはほとんど上っ面の形式上のものでしかないよ。例え土下座をしながら「もうしわけございまーせんでしたー!」とか叫ばさせられたとしてもさ、形だけのものでしかないよ。もちろん、それが悪いとは言わないしむしろそうあるべきだとおもう。それで、ここで大切だとぼくがおもうのは、あなた方が本当に謝意を抱いているかどうかなどでは決してなくて、最低限の型を、謝罪における型を守るべきなのではないかということなのだよ。

  この型というのは、当然ハサミの刃先を相手に向けて渡すようなことではないよ。要するに、「すいません」は型に外れているしそれは謝ったことにはならないということだ。ぼくの鍵穴にあなたの鍵は入りませんよ、っと。まぁ、ぼくも大人だから無理やり考えを溶解させてそのような理屈は無視して、先方の鍵を無理やりぐりぐりと押しこむのだけれども。

  ぼくだってね、一度「すいません」と言われたくらいでは何も思わないし、おそらくぼくじしんも使ってはいるのだ。一回性の発言に対してわざわざ突っ込むような確証は生まれにくいし、してみようものならとんでもない器の小さい人間だと思われかねないわけなのだから。

  でもね、例えば発話においてぺこぺことおじぎを何度もしつつ「すいません」を連呼されたら、これはハサミの刃のほうを「トウットウッ」とフェンシングの突きみたいにやられている気分に陥りかねないのだよ。グサグサと腹を突っつかれて良い気分がすると御思いなのかだろうかね、彼らは。いや、彼らはハサミを顧みたことが無いのではないか。つまり、どちらが刃先なのか確認したことなんて一度たりともないのだ!あなたはハサミの渡し方を教わりましたか?という問いは、あなたは日本語教育を受けましたか?という問いと遜色のない同等のものだとおもうよ。つまり、簡単にいえば文化のちがいによって「すみません」か「すいません」か、のような差異が生まれるのだろう。

  ぼくはたまたま、幼稚園くらいの頃からハサミは自分が刃先のほうを握って、手持ちの部分を相手側に差し出す、という一連の動作を常識として習慣づけられてきたがね。それは教育だ。でも、意外にもまともにぼくは日本語教育というそれを義務教育のなかで受けたことが無い気がする。国語学習というもので、もっとも記憶にあるのが漢字習得だろう。これは、ひらがなやカタカナを習得して以降の義務教育中はいつでも付きまとっていた。あとは古文とか漢文くらいではないだろうか。要するに、現代語文法などのように我々が日常で使う言語ってのは、勉強という形で半強制的に押しつけられることはほとんど無かったと言っていいのではないかな。

  それがなぜかというとね、ぼくが第一におもうのは教えようとしたって無理なんだろうなということだよ。だって、教科書通りにみっちりお勉強をしたってそれは絶対に、日常の言語と合致することはあり得ないのだもの。それに方言の存在や、研究者や勉強家の大人たちのなかにはこういうやり方に反対する人は沢山いるだろうしね。

  先ほど「文化のちがい」と言ったけれども、だから上に述べたように「すみません」と「すいません」のような差異が生じることは仕方のないことではあるとおもう。それでも、おもうのが謝罪のときくらいはしっかり型どおりの言葉で交流しようよ、ということなのだ。それに「すいません」だと語源とまったくちがってしまって、この言葉だけでは意味がわからないのも問題だよ。それでもコンテクスト(文脈)によって補われることで、我々はこの一見意味不明なことばからもしっかりと意味を汲み取っているわけだが。


  それでさ、「言葉は生き物だ」と本気で信じている人もいるように窺える訳だけれども、これはおかしいよ。こんなこといってたら、ぼくは恥ずかしくて表の通りを歩くことなんて絶対に無理だ!絶対無理!ぼくがなぜハサミを何度も例として挙げているかというとだね、ハサミが道具であるからだよ。それで、言語もまた道具なのだよ。「生き物」というのはもちろん比喩表現ではあるけれども、これが比喩としての意味だとしてもこう表現することはぼくは決して許せないね。これを平気で口に出せる人というのは、神秘主義のアホ野郎だよ。つまり、宗教的信仰といっしょでそれは逃避であって、なにから逃れているかというと、誠実に現実を見つめることだ。

  ハサミもさ、なんども使っていれば刃こぼれをしたり硬すぎるものを切ろうと試みたりすると壊れてしまうだろうよ。言語もそれと一緒なのではないのか、とぼくはおもうのだよ。ガッチガチに固めて制約だらけの文法で、言語を駆使していくのが最良の手段だとは言えない。けれども、だからといって「ことばはいきものだぁー。あはは」と好き勝手に特定の集団やはたまた個人で自由に使っていくのも間違っている。道具は大切に、そして正しく(この定義が極めて難しいのが問題でもあるが)使っていきたいよ。ぼくは日本人としてそうおもう。

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