sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画あるいはゲームの感想、攻略などについて書こうかなとおもっています。

図書館に在る音楽

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  Kがよく通っている図書館の一角には音響が在る。基本的にその館では、歯科医や動物病院で麗らかなクラシックが在るように、音楽が在り続けることはない。例外として、21時30分頃の閉館間際になると、アンビエントミュージックとも言えなくもないヒーリングミュージックのような、陳腐で如何にも作りだされた癒しを強いる偽善的音楽が現れてくるということはある。
  その音響の在る一角というのは、一階の入り口から階段を降りた地下一階のあまり人気がないマイナーな場所である(その図書館は地下三階まであり、Kは地下二階に主に文学の資料を探しに行くことが多々ある)。Kがそこに行く所以というのも、初めのうちは人気が少なく落ち着けそうな空間だからだった。しかし、Kの思惑に反して在ったものがその音響であった。

  実は、その音響はなんども以前に聞いたことがあった。しかし、それは当初のKにとってノイズ・騒音でしかなかったのだ。或る昼下がり、その図書館へいつもどおり赴き、僅かな探す必要のあった資料を手に入れ、落ち着くために例の一角へ向かい、薄茶色のカーペットに置かれた木製の椅子をひいて、腰を下ろし荷物を置いた。
  その頃Kに聞こえていたのは、音響か騒音かは判然としないが、そのどちらかはKが来る以前にも、そしてKが去ったあとにもそこに必ず在る。
  彼はバルザックの『ゴリオ爺さん』を、一から、当時のパリという舞台説明やら人物説明がつらつらと記されているのを、黙々とパリの空間に近づいていくように目を走らせていた。ふと、何とも耳障りな騒音が聞こえてくるのに気づく。が、それが何の音かは分かりそうで分からない。というよりも、あまりにも図書館という環境において大音量でそれは怪獣が苦しみつつうめいているように聞こえるので、当たり前であった静寂よりも、その豪快な音響空間に意識は支配ではなくて環境的範囲で包含され、「その音響が在る空間に私が在る」、それが当たり前になっていくのである。

  実を言えば、Kはその音の正体を知っていたし発音するもの自体を見たことはあった。けれども、確証が持てない何かがあった。というのも、図書館というと図書を探したり、それをこれ見よがしに何十冊も机に重ねて研究に耽ったり、机にうつぶせになり仮眠を取ったり、ただ文庫を静かに読むような場所であるとKは思いこんでいた。にもかかわらず、その一般的にいえば騒音であるその音の充満する空間には、いつくか机や椅子がある中で、意外にも、もちろん他の場所とは比べ物にならないほど人口密度は低いのだが、Kの周囲だけでも三人は学生が居るのだ。その他にも、その発音する正体の真下あたりでは女性二人組らしき人が、わりと遠くまで聞こえる声で仕事かゼミの発表かなにかの話し合いをしているのが聞こえてくる。この場合は、音響に溢れるその場だからこそ、声を出しても大丈夫だという魂胆のもとで敢えてそこに居るのだろう。しかし周囲の人々はといえば、二人は読書に励んでいるようだし、もう一人のKの目の前の座席に居る女子学生は、しきりがあってはっきりとは確認できないのだが、うつぶせになり居眠りをしているように見える。

  音響は、なんとなく上方からしてくる気がKにはする。それは発信源よりもKが下方にいるからであり、頭上そして背後から音響が抱擁してくる実感を彼に与える。それは、たしかに騒音でもある。けれども、フランス語を目で追っていきながらそれを詳察してみるとそうでもないと気付く。
  最も目立つのは中音である。次に低音であり、その位置だからか高音がもっとも聞こえづらく音階や律動を判断するのも困難である。しかし、中音だけを聴いていてもそこに一見不安定でありながらも確固とした音楽的規則性があるのが分かる。律動から言えば、それはエレクトロニカのように複雑であり、ビートが強調されていないために規則的律動性を入力するのは多少の苦労を要する。それはまるでエフェクトのリバースを掛けたかのように、尻すぼみに吐きだされる音であり、だからこそ律動性の不在を感じさせることになってもいる。そして、何十秒も耳を傾けていると、五秒から七秒ほどの区切りを見つけることができ、一つのサンプルをループされているのと同様に、なんども繰り返されているのが分かる。Kは中音による至福をひとつ得る。「ノイズではなかった、あぁ愛しき空間的音響!それは音楽なり」と詠う。
  低音を見つけ出して、Kの頭に浮かんだ言葉は「通奏低音」であった。奏者の僅かな息がバッグに溜まって、外に出力されるバグパイプの一定の音階を保ってほかの音の強力な地盤となるあの生きた低音だ、と彼には聞こえる。永続する怪獣の唸りとも思える。また、eluviumの作品を満たしつつ支えるドローン(持続低音)を思い起こさせる。
  高音は残念ながらKに見つけ出すことは出来なかった。けれども、その騒音の中にはミドルとロウが個々に音響として在りそれはKにとってオリジナルの音楽に形成されていく。すくなくともエレクトロニカ的リバースのミドルと通奏低音のロウが、彼には聞こえ実感し、それが至福となる。

  わずかであるが音響とともに過ごした文学的でもあるその空間と時間は、『ゴリオ爺さん』によってパリの世界を映し、音響が空間に満ちることで世界が補強される。彼は、そろそろ講義が始まる時間であったので、資料を鞄にしまい込み、身支度をととのえその場から立ち上がる。そして、あの音響が発音される方向を改めて向く。発音する機械は数多の書架によって隠され、まだ目には見えない。
  すこしばかり前進すると、すぐにそれは目に映る。ひと世代前という印象を与える、おそらく空気調節をするための強大な機械である。それは、天井に設置されているというようりも、世代交代に怯えて必死にしがみついているように彼には思えた。それは視覚的にも唸り出している音響的による印象でもある。

  この機械の下へわざわざ集まる人たちというのは、Kの結論によると大変もの好きなのだろう、ということだ。おそらく、ポストロックやエレクトロニカなどの音響系音楽か、それに近いアンビエンスな音響を好む変わった人々なのだろう、とおもう。この音響はたしかにエレクトロニカ的な面をもってはいるが、完全にそうと言い切れるわけではない。テクノとハウスとエレクトロニカで、またエレクトロニカとポストロックで、音響系音楽でも必ずしも定義づけて区別されたものが正確でないように、Kにもその区別は曖昧ではあるのだが、この機械から出される音響は名づけという断片化を行い難いそういうものだ。或いは、名づける必要がない、というか誰にも求められてない無名の音響であるのか。Kはそういった哀れみを、数々の学術雑誌が並ぶ書架の間をせかせかと早歩きながら、その老いぼれエアー・コンディショナーを一瞥し、音響を背にしながら階段を上った。

  この日の四限の講義は、「社会人類学A」であった。受講者が百人近くいて、広めの教室で行われる。Kはあの音響のせいもあってなんとなく心地好い気分である。なによりも今季のこの時限が楽しみなのは、後ろ姿の美しい女学生が、前列のほうの席にいつも居るので、それを後方の席から見つめられることである。あの音響の発見により、水曜日は一週間のうちでKにとって最も素敵な日となることだろう。





■投稿者自身による解説

  この文章を実際に書いたのは、2003年の春頃のことでありまして、今回『パリの読書空間』さんに掲載させて頂くまでに、二年程経っています。当初これは、どこかへ投稿するために書いたのではなくて、ふとこの体験から数年後を経たあの時に思い出してしまったので、遂文章に著してしまったのです。そして、知人の編集者であるヴォートラン氏に拝見して頂いたところ、とてもお気に召してくさり、こうして発表までこぎつけられたのであります。彼への感謝の念はとても表わし尽くせません。そのことだけは、記しておかなければなりません。

  さて、この短文は図書館でのKの体験を第三者が語っているわけですが、ほとんどが筆者の実体験に基づいておりまして、そこへいろいろと話を膨らませたり嘘を混ぜたりして生成されております。執筆当初でさえ、記憶は断片化されおぼろげになっていたものですから、正確性なぞというものはほとんど諦めていたわけでありますが、あの騒音をこうして音響的に感受できたことは本当に幸せだと思っています。しかしながら、音楽を専門的に勉強したことが無い身でありつつも、音響を文章で表現するには音楽的用語などを多用することは避けられませんでした。こうして「音階」や「律動」や「通奏低音」などを筆者なりに、解釈し文学的表現に変換させていただき用いていることは、読者のかたがたにもしかしたら誤解を生む要因になるのではないかと、そういう不安もございます。なかでも、表現としてはとても気に入っている「通奏低音」という用語ですが、これは作中のKのように真っ先に頭に浮かんだのですが、どうも読み返してみると音楽的には誤りである気がしてきました。ですから、いくつか参考資料にあたりまして、もっとも参考にさせていただいたのがウェブにあった「通奏低音用例集(http://nakagawashoji.fc2web.com/continuo.htm)」というものであります。こちらのサイトからは大変な恩恵を被りました。しかしながら、「通奏低音」の使用の責任は言うまでもないことですが筆者にあります。この文章とは直接関係なく、この用語に関する本サイトの考察などは大変興味深いものがございますので、是非閲覧してみて欲しいと思います。

  この作品の見どころといいますか、貴重性というのは「図書館」という場で存在する「音響」から見出す音響的音楽独特の楽しみだと思っています。この場所・空間と聞こえる音(ここでいえばエアコンの音)というのは、あらゆるものに置換できます。例えば電車内のなかで聞こえる車体が軋む音や線路を転がる車輪の音、自宅の一角に佇む冷蔵庫の稼働する音、林のなかの風によってそよぎぶつかりあう葉や枝からする音などなど。そういったものを、ただ「音(音響)」や「騒音(ノイズ)」というように「音楽」とは区別して処理してしまうのはとても勿体ない事だとかねがね思っておりました。

  ひとつ知っていて頂きたいのは、「音楽」という単語は元来漢籍にあったもので、元来「音を楽す」という意味で用いられていました。「楽す」というのは「たのしむ」ということではなくて、「楽器を演奏する」ということであります。したがって、「音楽」とは「音を楽器で出す」ということの意味でしかありませんでした。ヨーロッパの語族では「Muse」という言葉がありまして、それが「Music」の語源となっています。「Muse」は芸術や学問を司る神の名でもあります。神話に登場する神々というのは、自然の力にちなんだものが多く、これも例外ではありません。

  現在一般的に聴かれている音楽の大半には著作権というものが、権利として認められています。そして我々はその権利を金銭によって消費しているわけでありますが、それが現在の音楽という概念を形成するひとつの在り方であります。しかしながら、言語の方面からだけでも漢籍による「音楽」や「Muse」を顧みるに、元来音楽はそうではないと、現在の音楽や人々のそれに対する意識に対してどうしても違和感を覚えるのです。

  この短文を書き終えてから、そういったことが文章に滲み出ていると実感致しました。音楽は誰かが占有するものでも、権利を売って得るものでもあって欲しくありません。我々の各々が、音楽のオリジナルの作者になることを筆者は望んでいますし、そういうムーブメントを多少なりとも起こせると信じて活動をしていけることが何よりの仕事であります。筆者自身には、音楽をやるという力が不足していると、実際に音楽をかじってみて思いこんでしまっています。けれども、他の方向での仕事でこそ影響を与えることができて、なにかを残せる気がするのです。

  みなさんには、CDやデータに収められて権利を買い取ったものでなくても、ある種のノイズからでも(それを音響と呼ばせて頂いていますが)、そういうものを耳にしてその音楽の作者になって頂きたく思っております。


投稿者 R.G


ゴリオ爺さん (新潮文庫)

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