sibafutukuri

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レコードとセックス―herrmann & kleineを聴きながら

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  レコードを部屋でかけながら、女の子といちゃつくってことは未だやったことがない。春樹の小説でそのような場面があったのだと思う。ぼくが直接読んだかそういう話を聞いたのかはわからないけれど、そういう記憶がある。ぼくは村上春樹の小説は一生涯目にしないと決めたので、確認できないことが残念だが。どこでそういう景色を目にしたかはともかく、なんとなくそれには憧れを覚えるから、やってみたく思う。女の子といちゃつきながら、傍でレコードが回って音楽が流れていたらその時間はおしゃれですてきな時間になると思うんだ。
  とはいうものの、アナログレコードにはA面とB面がある。アナログレコードには両面があって、大抵の場合はA面からぼくなんかは針を落とすのだけれど、片面が終わったらもう片面に針を置き換えなければならない。レコードをひっくり返して、針を落とさなければならない。また、両面が終わってしまった場合には、特別な理由がない限りは先とはちがったレコードを選んで、先のレコードをケースにしまって次のレコードをプレイヤーのマットに置いて針を落とさなければならない。
  こんな手間なことを、いちゃついている最中にやるってのかい?そんなのはこの時代の女からすれば、ただの不手際な男でしかないだろうよ。

  とはいえ、まぐわいというのはデジタルで聴く音楽よりも、アナログで聴く音楽に近いとぼくは思う。皮膚と皮膚、内面と外面がこすれ合うあの行為はアナログレコードの構造を彷彿させる。レコードの盤面には糸の様な濃やかな溝が渦を巻いている。その溝にレコード針を置いて、‘start・stop’のボタンを押し、まわり出したレコードの溝のなかをレコード針でこすることによってデータを読み取り、音響が流れだす。
  つがいが互いの肉を摩擦し合うのは彼らの情報の伝達上において、最上位に位置するだろう。レコードの盤面を針がこすり広く深い音響をつくりだすように、つがいはまぐわいによって一時の安堵をつくりだす。音響が恒常に在り続けないように、その安堵も不安定であり非恒常的であってテンポラリーではあるが、だからこそその昂りは代替し難い安堵をつくりだす。
  まぐわいとレコードの構造上の共通性からすれば、この時代に敢えてアナクロニズムにアナログレコードを流しつつ、女の子といちゃつくのも悪くないと思えなくもない。しかしながら、これは心理的な問題ではあるのだけれど、レコードにはA面とB面があるとか一枚が終わったら別の一枚に換えなくてはならないと先に書いたが、AとBを換える間にはもちろん静寂の間が待っているし、次の一枚に換えるあいだにもその間はある。その間は、「休憩時間」と捉えれば都合がよいかもしれないが、現実にいちゃいちゃしているときに、ほぼ強制的に休憩を宣告するのはいかがだろうか。

  レコードの場合、片面の再生分が終わると(これは、つまり片面の溝が尽きたということを意味するのだけれども)溝が無いつるつると滑る部分をレコード針は盤面の中心に向かって勢いよく横滑りしていき、紙製のレーベル一歩手前で停止する。その後に音響はどうなるかというと、これはレコード毎に違う。或るものはほとんど無音であり、或るものはプツプツとノイズが規則正しく鳴り、或るものはレーベルの手前で止まれずに、それの上をこすりつづけて酷く耳障りな音をたてる。それに、レコード針への影響からいえば、長時間レコードの上に置いておくのは針への重さの負担からしてよくないし、プチプチという音をたてられ続けると心象的にそのままにしておくのはまずいような気がする。それらの音が気持ちいいこともあるが。音響から静寂への遷移というのは、静寂から音響への遷移と同等であって、その遷移は何かしらの意識への働きがけを起こすだろう。行為には集中力を要するので、作為的にそれを途切れさせることは止しておいた方がいいのではないかと思うのである。
  また一方では、どちらが裏か表かという問題は置いておくとしても、AとBに分かれている以上はレコードに裏と表は存在し、これもものによるけれど双方で全く印象の変わるレコードというものもある。そういったレコードの場合は、行為中の女性に対して心理的変化をもたらすのではなかろうか。これがA面とB面の入れ替えならばまだましだが、レコードの入れ替えの際には更に著しく変化をもたらしそうだ。しかし、この心理的変化が必ずしも結果として悪くなるとは限らず、余計に女性の気分を昂らせる可能性もある。したがって、音の変化だけからすれば、レコードの反転や入れ替えなどはまぐわい上において冒険的行動と言えるだろう。

  例えば、ぼくが一人でふてぶてしく部屋の体積を占領するソファの上にあぐらをかいて、ずしりと手ごたえのあるメルロ・ポンティの『知覚の現象学』という書を読み耽りつつ、herrmann & kleineの"our noise"を流していたりしても、もちろんのことだけれど、煌々としたA面が終わった頃にはかわいらしくキャッチ―な女の子の声がするB面に換えるために、まずメルロ・ポンティにしおりを挟み机にそれを置き、つぎに脚のあぐらをほどき、深々と体を沈ませたそのソファから立ち上がりプレイヤーで一連の作業をして、それからまたメルロ・ポンティの難解な文章と再び対面する。これは一人の時だけれども、二人で行為の最中にこれをやるとなるとどうなるのか、どれほど億劫になるのか、ひょっとすると、柔らかでしっとりとして時に皮相的に冷たくも内奥的且つ抱擁的に熱くもあるあの体と距離をとることを、船上から港を見送るような気分になりつつもプレイヤーに向かうのだろうか。

  女の子といちゃつきながら、レコードで音楽を流すというのはやはりおしゃれですてきな印象は拭えないとここまでやってみても思うよ。文学的状況として、ぼくの中にもそれへの憧憬は残響している。でもね、これは冒険だと思う。見返りも大分あるだろうけれど、損失への危機感というのがつきまとっている。ぼくは実世界において、冒険家にはいつだってなれないやつだから、こういう大胆なことはやはり出来ないのだろう。ぼくは堅実に、ぼくが持っている21曲、時間にして2時間17分35秒のSonnaの楽曲群をパソコン上でオールリピートしつつ女の子と延延といちゃつくだろう。そういう機会と巡り合えればの話だけれども。

our noise/herrmann & kleine